村野瀬玲奈の秘書課広報室
社員一人のサイバー政治団体(笑)「世界愛人主義同盟」秘書課勤務の村野瀬です。消費税収入は社会保障に使われずに法人税減税に回っただけって知ってました?まるで国民から大企業への利益の直接補てんですね。有権者と政治の距離を縮めるため、国会議員名簿の活用を!
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東京都と埼玉県で1988、1989年に4人の女児が殺された幼女連続誘拐殺人事件の犯人ら3人の死刑が2008年6月17日、執行されたことを報道で知りました。
改めて、幼くして亡くなった被害者とその親族のつらさ、悲しみに思いをはせて、哀悼の意を表します。
しかしながら、犯罪と犯罪者を断罪しながらも、私は死刑制度全体に反対する立場から、誰に対する死刑執行に対しても反対しています。「死刑は犯人にとって当然の報いだ」と言ってこの件を終わりにして忘れ去ることはできないのです。
新聞を見ると、幼女連続誘拐殺人事件の犯人は自分の死の意味がわからないまま、反省も謝罪もなく、謎を残して処刑されたなどと書かれており、「日本政府には日本国民の生命を意のままにする権限がある」といわんばかりの象徴的な意思表示以外に、なんのための処刑なのか、改めて考え込んでしまいました。結局、犯人から謝罪も反省も引き出すことができなかっただけでなく、犯人が何を考えて犯行に及んだのか、それを知る機会も永遠に失われたことになります。それと同時に、被害者親族への物心両面のケアは、国民の幸福を後押しする立場にあるはずの政府や自治体などによって実行されているのでしょうか、と思います。
今回の記事では幼女連続誘拐殺人事件について詳しく振り返ることも、私が死刑に反対する理由を一つ一つ説明しなおすこともしません。今回の記事を書くのは、新聞記事にあった次の一節を忘れないためです。死刑囚の名前は伏字にして転記します。(伏字にするのは、死刑囚の遺族へのバッシングに私は加担しないという意思表示でもあります。)
(引用ここまで)東京新聞夕刊 2008年6月17日
東京都あきる野市にあったxx死刑囚の自宅は壊された。家族や親類の多くも婚約の破談、離婚、退職に追い込まれたという。父親は賠償金を支払うため先祖代々の土地を売り払い、五年後の94年11月、青梅市の多摩川に飛び降り、自殺した。
死刑制度に賛成する人がその理由として「あなたの家族が殺されても死刑に反対するのか」ということをあげます。人間の感情としては自然な反応ですから、論理を重ねて直接「反論」しようとは思いませんが、感情と制度の境界線に注意しながら考えるべきだ、とだけ言いたいと思います。
それよりも、今回はこんなふうに考えてみたいのです。殺人犯一人が殺す被害者の数を一人と仮定すると、被害者の数と同じだけ殺人者がいることになります。複数殺人を考慮に入れれば、被害者親族とほぼ同じかそれに近い人数だけ加害者の親族がいることになります。あなたや私が殺人事件の被害者遺族となる確率は、あなたや私が殺人事件の加害者の親族となる確率にかなり近いということなのです。
たとえあなたや私が幸いなことに殺人者にならずに人生をおくるとしても、殺人者の親族になる確率は、あなたや私が家族を殺される確率とほぼ同じだと言えます。あなたや私が殺人を犯さなければ殺人事件は他人事、ではないわけです。「被害者のことを考えたら死刑は当然だ。死んで償え」という世間の声の集合が、あなたや私に四方八方から突き刺さる可能性は確実にあるということです。たとえ殺人を犯したのがあなたや私でないとしても。
そのことに思いをはせるとき、犯罪を憎み、犯人に罪を償わせるのは言うまでもありませんが、「犯人を死刑にせよ」と犯人や犯人の親族、さらには死刑廃止論者に向かって叫ぶだけで事足りると考えてはいけない、と私は考えます。「自分は罪を犯さないから関係ない」と思っている人も、親族からたまたま犯罪者がでれば、たちまち「犯罪者側の人間」にされてしまうのです。自分がそのような立場におかれたとき、人生を理不尽にも断ち切られた被害者はもちろん、被害者の親族も辛い境遇におかれるけど、加害者の親族もまた生き地獄に投げ込まれることを人ははじめて理解するのでしょう。
被害者の不幸。被害者遺族の不幸。加害者親族の不幸。加害者の不幸。犯罪という不幸を作り出す構造や契機を少しでも少なくする社会を作ることが長期的にはどうしても必要です。その手がかりをこれらの犯罪から得ようとする努力が私たち一人一人や司法や報道の中に十分にあったのか、といつも問わなければ本当に犯罪と闘うことにはなりません。犯罪者だけを断罪すること、イコール、犯罪と闘うこと、ではないと思っています。
この死刑執行ですべてが終わり、社会は元の秩序に復したわけではありません。結局私たちは犯人のことを理解できないまま、この犯罪を理解できないまま、この事件から社会のゆがみを社会全体で読み取って正そうとする営みも未完のまま、犯人を殺してしまいました。被害者側には言うまでもなく、加害者側にも大きな不幸が残ったまま、被害者側、加害者側、両方の不幸のことも、社会をより良くしようとする努力も、犯人の処刑とともに忘れられてしまうのでしょうか。
死刑に対してどのような立場をとっていても、次のことは常について回りますから、忘れてはならないと思います。被害者の数だけ加害者がいて、被害者遺族の数だけ加害者の親族がいることを。つまり、私たちが被害者遺族になる確率は、私たちが加害者の親族になる確率とほぼ等しいことを。被害者の親族になる可能性に思いをはせると同時に、加害者の親族になる可能性にも思いをはせなければいけないと。私たちはみな当事者なのだと。
このような事件の原因にさかのぼって社会の中の事件の根をなくそうとする努力をすることが被害者の尊い犠牲を無駄にしないことだと思うのです。しかし、報道の中に「犯人の処刑で区切りがついた」などと書かれているのを見ると、「そういう定型的な書き方は、このような事件の原因にさかのぼることの必要性を忘れさせ、社会を改善する営みの大切さを人々の頭から忘れさせるはたらきしかしないのではないですか?」と問いかけたくなるのです。被害者遺族にとってはある意味でそうかもしれませんが、身内を殺された欠落感はずっと残るでしょう。それになにより、社会にとっては重い課題が残されますから。
犠牲者の不幸と苦しみについては、それを引き合いに出す人々よりもずっと、私は自分の人生の中でひんぱんに、その影響の広がりを確かめてまいりました。犯罪が人間の不幸の遭遇点であり地理的場所であるということを、私は誰よりも熟知しております。犠牲者自身の不幸と、それ以上に、犠牲者の親族や近親者の不幸があります。また、犯罪者の親族の不幸もあります。そして、たいへんに多くの場合、殺人者の不幸もあります。そうです。犯罪は不幸であります。そして、感情、理性、責任感ある男女には、まずその不幸と闘おうと望まない者はいないのです。しかし、自分自身の心の奥深くで犠牲者の不幸と苦しみを感じ、それでいて暴力と犯罪がこの社会の中で退くようにあらゆる方法で闘うという、この気持ちとこの闘いは、有罪者を必ず死刑にすることを意味することはできないでしょう。 ---ロベール・バダンテール
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10件のコメント
[C4230] うぬぼれ
- 2008-06-22
- 編集
[C4239] 初めまして
私も、死刑制度には反対です。
私も、被害者側になるのも、加害者側になるのも、紙一重だと思います。
また、加害者と同じDNAで、同じ生活環境で育ち、犯罪を犯さない人だけが、加害者を非難出来るのではないでしょうか?
ですが、被害者の家族の方々には、加害者に罪を償ってもらう権利はありますが・・・。
かといって、私達、被害者家族でもないものが、死刑をけしかける事があっては絶対ダメだと思います。
無差別殺人のような事件には難しいのかもしれませんが、心の闇を探るより、いじめをなくしたり、女性は夜遅く出かけるのをやめるだけでも、加害者も減り、被害者も減るのではないかと思います。
いじめをしている人は、自分達が加害者を生み出しているということを知り、犯罪と無関係ではないという事を知る必要があると思います。
また、私達は知らず知らずに、誰かを傷つけ苦しめています。
- 2008-06-23
- 編集
[C4255] >みなさん
>閉口さん
うぬぼれているかどうかは別として、自分は誤りをおかさないと考えている人は多いですね。過失の交通事故で私の身内を殺された場合、私が「被害者の遺族である私の感情を考えなさい。死んで償いなさい」と犯人にしつこく要求したらどうなるのか、などと考えることもあります。日本では8割以上の人が死刑に多かれ少なかれ賛成だそうですから、賛成してもらえるのか、「純粋な過失致死でそんなことは要求できない」と言われるのか...。まあ、考えるだけです。
>さくらんぼさん
はじめまして。いらっしゃいませ。うちではコメントは管理人承認制をとっていまして、コメントを書いてもすぐに表にはでません。二度コメントをいただきましたが、同じ趣旨でしたので一つは削除扱いにさせていただきました。
家族や身内でもない私達が、死刑をけしかけるものではあってはならない、ということは私もよく考えます。第三者にできることは、静かに哀悼の意を表すること、犯罪の少ない社会にしていくためには犯罪のどのような原因を取り除くのがいいのかを静かに考えることだと思います。
もう一つ興味深いのは、「犯人を死刑にせよ」の声があがる一方で、たとえば強姦のような犯罪に対しては被害者の落ち度を探して加害者を免罪するような声がかなり根強いことです...。これはさくらんぼさんへの返事とは別のことですけど。
>08/06/23 11:36:12の匿名コメント提供者さま
励ましありがとうございます。おっしゃるとおり、死刑は負の連鎖しか生み出さないのですが、感情の問題はむずかしいですね。
>08/06/23 13:47:28の匿名コメント提供者さま
ありがとうございます。こんな私ですが、私なりに何か言っておかないと、と思っていろいろ考えて書いています。読んだ人になにかの参考にしてもらえればと。
ただ、私、当事者ではないけど、どんな人であれ、人が殺されることを想像すると、やはりいい気持ちはしないのです。イラクの罪のない市民がアメリカ軍に殺されること、民衆を殺した独裁者が処刑されること、重罪犯が処刑されること、第二次大戦中にアジアの人々が日本軍に殺されたこと、日本の戦犯が連合軍によって処刑されたこと、などなど、どんな例を想像しても居心地が悪いです。
- 2008-06-23
- 編集
[C4258] 犯罪者の心理
こういうネットの書き込みなんかでも、マナーを守れない人に限って、厳罰賛成派です。
では、既に犯罪を犯した人たちはどうなのかというと、実はこれも同じなんですね。
凶悪犯罪者たちは、ほとんどが死刑制度に賛成です。
それをもって、「当の凶悪犯罪者たちが死刑に賛成しているんだから、社会契約上は問題ないじゃないか」ともいえるかも知れませんが、果たしてそれでよいのかということですね。
- 2008-06-24
- 編集
[C4259] 死刑論は入試からなくなる?
で、その一貫として、慶應総合政策学部05年入試問題もあるのだと。
しかし、死刑制度については、世界の趨勢は廃止の方向で決しつつあるように思えます。こうなると、死刑論は入試のテーマから除外される可能性があります。何せ出題するのは大学の先生方ですからね、少なくとも法学部なら出題者がこの趨勢を知らないとは考えにくいです。
- 2008-06-24
- 編集
[C4301] 死刑制度は必要です
死刑制度を廃止しようがしまいが、「犯罪という不幸を作り出す構造や契機を少しでも少なくする社会を作ること」には全然繋がりません。死刑制度を廃止している国で日本よりも凶悪犯罪の発生率が高いところは、たくさんあります。
「その手がかりをこれらの犯罪から得ようとする努力」
凶悪犯罪の発生率を比べれば、日本は今でも十分「不幸の少ない社会」ですが。フランスあたりの「努力」とやらと比べても、日本の「努力」の方が優れた成果を挙げて(すなわち、不幸の少ない社会になって)います。
「犯人が何を考えて犯行に及んだのか、それを知る機会も永遠に失われたことになります。」
捜査と裁判の過程である程度判っています。その結果が死刑なのです。
「私たちは犯人のことを理解できないまま、この犯罪を理解できないまま」
犯行が濡れ衣でなく事実であり、犯人が冷酷非情の極悪人であることが理解できましたが。その結果が死刑なのです。
「この事件から社会のゆがみを社会全体で読み取って正そうとする営みも未完のまま」
「社会の中の事件の根をなくそうとする努力」
フランスあたりの「努力」「営み」とやらと比べても、日本の「努力」「営み」の方が優れた成果を挙げています。で、そういう「努力」「営み」は、死刑制度の存続とも廃止とも関係ない、別次元のことです。
「死刑に凶悪犯罪抑止効果があると考えることはできない」
死刑廃止にも凶悪犯罪抑止効果などはありません。
「冤罪の可能性」
冤罪の可能性がある場合は、死刑に限らず、いかなる刑罰も科されるべきではありません。冤罪の可能性という問題に対しては、捜査と審議の正確を期すべきなのであり、「冤罪かもしれないから、死刑はやめとこう、無期にしとこう」でいい訳はないでしょう。
「全体主義性」
「天皇主権・君主主義国家体制の変革を企む結社を組織したら死刑」とかならともかく、幼女誘拐殺人やら殺人強姦やら無差別通り魔やらを死刑にするのが、何で全体主義的なのですかね。
「民主主義が制度と実践の両面で定着している国々で長い歴史の試練に耐えた十分な理由と根拠が死刑反対論にはある」
幼女誘拐殺人やら殺人強姦やら無差別通り魔やらを死刑にしようがしまいが、民主主義とも全体主義とも関係ありません。別次元のことです。
「刑務官の苦悩」
公務員は法に則り(死刑制度も法ですよ)職務を粛々と遂行せねばなりません。それができないのなら辞職すべきです。
「死刑が法で規定された「制度」である以上、それは論理的、倫理的な体系的一貫性がなければ」
本来、被害者の受けた人権侵害の程度と状況に応じて、加害者の受けるべき刑罰(犯人の人権を制限するペナルティ)を決めているのです。
全く落ち度のない被害者をわざと殺したら、加害者の生命も剥奪されうる、それが人権のバランスというものです。「いかなる場合も犯人を死刑にしてはならない」というのは、「被害者の人権<加害者の人権」とみなしているのと同じであり、バランスを欠いています。
- 2008-06-25
- 編集
[C4304] >Black Jokerさん
>死刑制度を廃止している国で日本よりも凶悪犯罪の発生率が高いところは、たくさんあります。
でしたら、日本で死刑をどうしても維持する必要はありませんね。「犯罪の抑止」を理由のひとつにかかげて死刑制度を維持しているわけですから。
>幼女誘拐殺人やら殺人強姦やら無差別通り魔やらを死刑にしようがしまいが、民主主義とも全体主義とも関係ありません。別次元のことです。
私には意味不明です。組織が個人に対して「死を命じる」という究極の加害を行うことができる、それが全体主義でないと言いたいのならもっときちんとした説明が必要です。
>日本の「努力」「営み」の方が優れた成果を挙げています。
「努力」の内容と「優れた成果」の具体例がないと、この文には意味がありません。
>全く落ち度のない被害者をわざと殺したら、加害者の生命も剥奪されうる、それが人権のバランスというものです。
言葉本来の意味の「人権」(たとえば世界人権宣言で書かれている「人権」)とあなたの理解はかなりずれているようですが、まあそれはいいです。でも、あなたなりに理解する「人権」とは何か、それは定義、説明できるのでしょうか。それができなければ、この文に意味はありません。
ところで、あなたの価値観では、殺人者は全員死刑ということになるのでしょうか?(もし死刑にしたりしなかったりしたら、あなた自身が被害者の「人権」に差別を持ち込んでいることになります。「人権」という言葉の定義はおくにしても。)
また、過失致死であっても、被害者にとってはたった一つの命を奪われたということで、死に至らしめられたという結果は同じです。殺人と過失致死とを区別する理由は何でしょう?過失致死事件で殺された被害者遺族が「加害者を死刑にせよ」と強く主張したら、あなたはそれに賛成するのでしょうか、はねのけるのでしょうか。
これらの疑問に対してきちんとした説明ができるのであれば、お聞かせください。無理にとは言いませんが...。
- 2008-06-26
- 編集
[C4323] バランス
いいえ、「人権のバランス、罪と罰のバランス」から死刑制度を維持する必要があるのです。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b152016.htm
↑二の(17)について。「…その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」
「一般予防の見地」については蛇足です、各国を比べてみても死刑制度の有無と凶悪犯罪の発生率に相関がない以上、廃止派の言う通り「犯罪の抑止」は死刑制度の維持の理由になりえません、が廃止の理由にもなりえません。
「罪刑の均衡の見地」の方が決定的に重要なのであり、これこそが死刑制度の維持を必要とする本質的理由なのです。
例えば、件の幼女誘拐殺人でですね、犯人の死刑に反対するということは、
「犯人が幼女4人を殺した(幼女4人の生命を故意に剥奪した)という罪」に対して
「犯人を死刑に処す(犯人の生命を剥奪する)という罰」を与えるのは、
バランスがとれていない、罪に比べて罰の方が厳し過ぎる重過ぎる、
均衡を確保するために罰を軽くし犯人を生かしておくべきだ、
…と言っているのと同じなのですよ。
被害者の幼女の生命の権利よりも犯人の生命の権利を重く見ているのと同じなのですよ。
そういう主張に「論理的、倫理的な体系的一貫性」とやらがありますか。
「組織が個人に対して「死を命じる」という究極の加害を行うことができる、それが全体主義でないと言いたいのならもっときちんとした説明が必要です。」
民主主義:究極の加害を行なうことはできないが、究極でない加害なら行なうことができる。
全体主義:究極の加害も行なうことができる。
…などという定義は聞いたことがありませんが。
この妙な定義でいけば、「反戦ビラを配った者を捕らえて死刑にすると全体主義だが、無期懲役なら民主主義の範囲だ」みたいな話も成り立ってしまいますが、どの国語辞典にそんな妙な定義が書いてありますか。
そもそも司法制度は、組織が犯罪者の人権を制限する、軽い罪には軽い罰、重い罪には重い罰を与えることによって、大なり小なり犯罪者の人権を制限するものであって、そのような罰は加害でもなんでもない。「罰は加害だからダメ」というなら、「野放しにするしかない、司法もいらない」ということになってしまいますよ。
「言葉本来の意味の「人権」」
言葉本来の意味の「全体主義」は、貴方の用法とは異なります。
で、犯罪者の「人権」ですが、世界人権宣言では「犯罪者を死刑にするのは、犯罪者の人権侵害であり、許されない」みたいなことは全然書いていません。
「殺人者は全員死刑ということになるのでしょうか?」
「死刑制度を廃止せよ」=「全ての殺人者を死刑にするな」ですが。
「死刑制度を維持せよ」=「全ての殺人者を死刑にせよ」ではありません。
例えば、被害者側に落ち度があれば酌量が適用されうるでしょうが、件の幼女に落ち度がありますか。
「あなた自身が被害者の「人権」に差別を持ち込んで」
被害者側が悪くない場合と被害者側も悪い場合を区別するのは当然でしょう。
世界人権宣言では「被害者側も悪い場合に酌量を適用するのは、差別であり許されない、被害者側が悪くない場合と平等に扱わねばならない」みたいなことは全然書いていません。
「過失致死事件で殺された被害者遺族が「加害者を死刑にせよ」と強く主張したら」
殺すつもりで殺すのとそうでなく死なせてしまうのでは、罪の重さが違いますから、罰の重さも異なります。過失致死で遺族が何を言おうが、刑法を逸脱した判決はできません。
件の幼女殺人犯を死刑にするのは、刑法の範囲内ですが。
「「努力」の内容と「優れた成果」の具体例がないと」
「優れた成果」は、日本の凶悪犯罪率の低さです。今でも日本は世界的に見て「犯罪という不幸を作り出す構造や契機を少しでも少なくする社会」に十分なっている。これは、巨視的に見て経済的豊かさとモラル教育の維持という「努力」がそれなりに奏功しているからです。死刑制度は関係ない。
- 2008-06-26
- 編集
[C4332] 罪刑の均衡の見地
いいえ、「人権のバランス、罪と罰のバランス」から死刑制度を維持する必要があるのです。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b152016.htm
↑二の(17)について。「…その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」
「一般予防の見地」については蛇足です、各国を比べてみても死刑制度の有無と凶悪犯罪の発生率に相関がない以上、廃止派の言う通り「犯罪の抑止」は死刑制度の維持の理由になりえません、が廃止の理由にもなりえません。
「罪刑の均衡の見地」の方が決定的に重要なのであり、これこそが死刑制度の維持を必要とする本質的理由なのです。
例えば、件の幼女誘拐殺人でですね、犯人の死刑に反対するということは、
「犯人が幼女4人を殺した(幼女4人の生命を故意に剥奪した)という罪」に対して
「犯人を死刑に処す(犯人の生命を剥奪する)という罰」を与えるのは、
バランスがとれていない、罪に比べて罰の方が厳し過ぎる重過ぎる、
均衡を確保するために罰を軽くし犯人を生かしておくべきだ、
…と言っているのと同じなのですよ。
被害者の幼女の生命の権利よりも犯人の生命の権利を重く見ているのと同じなのですよ。
そういう主張に「論理的、倫理的な体系的一貫性」とやらがありますか。
「組織が個人に対して「死を命じる」という究極の加害を行うことができる、それが全体主義でないと言いたいのならもっときちんとした説明が必要です。」
民主主義:究極の加害を行なうことはできないが、究極でない加害なら行なうことができる。
全体主義:究極の加害も行なうことができる。
…などという定義は聞いたことがありませんが。
この妙な定義でいけば、「反戦ビラを配った者を捕らえて死刑にすると全体主義だが、無期懲役なら民主主義の範囲だ」みたいな話も成り立ってしまいますが、どの国語辞典にそんな妙な定義が書いてありますか。
そもそも司法制度は、組織が犯罪者の人権を制限する、軽い罪には軽い罰、重い罪には重い罰を与えることによって、大なり小なり犯罪者の人権を制限するものであって、そのような罰は加害でもなんでもない。「罰は加害だからダメ」というなら、「野放しにするしかない、司法もいらない」ということになってしまいますよ。
- 2008-06-27
- 編集
[C4333] 続き
言葉本来の意味の「全体主義」は、貴方の用法とは異なります。
で、犯罪者の「人権」ですが、世界人権宣言では「犯罪者を死刑にするのは、犯罪者の人権侵害であり、許されない」みたいなことは全然書いていません。
「殺人者は全員死刑ということになるのでしょうか?」
「死刑制度を廃止せよ」=「全ての殺人者を死刑にするな」ですが。
「死刑制度を維持せよ」=「全ての殺人者を死刑にせよ」ではありません。
例えば、被害者側に落ち度があれば酌量が適用されうるでしょうが、件の幼女に落ち度がありますか。
「あなた自身が被害者の「人権」に差別を持ち込んで」
被害者側が悪くない場合と被害者側も悪い場合を区別するのは当然でしょう。
世界人権宣言では「被害者側も悪い場合に酌量を適用するのは、差別であり許されない、被害者側が悪くない場合と平等に扱わねばならない」みたいなことは全然書いていません。
「過失致死事件で殺された被害者遺族が「加害者を死刑にせよ」と強く主張したら」
殺すつもりで殺すのとそうでなく死なせてしまうのでは、罪の重さが違いますから、罰の重さも異なります。過失致死で遺族が何を言おうが、刑法を逸脱した判決はできません。
件の幼女殺人犯を死刑にするのは、刑法の範囲内ですが。
「「努力」の内容と「優れた成果」の具体例がないと」
「優れた成果」は、日本の凶悪犯罪率の低さです。今でも日本は世界的に見て「犯罪という不幸を作り出す構造や契機を少しでも少なくする社会」に十分なっている。これは、巨視的に見て経済的豊かさとモラル教育の維持という「努力」がそれなりに奏功しているからです。死刑制度は関係ない。
- 2008-06-27
- 編集
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可能性はどちらも五分と五分だと思います。
もし自分が被害者だったら?被害者親族だったら?という質問はよく聞かれます。
しかし、もし自分が加害者だったら?加害者親族だったら?という質問はあまり聞かれないように思います。
このことは、自分は被害者にはなっても、絶対に加害者にはならない。自分は常に正しい、誤りは犯さないといったうぬぼれた人間が、いかに多いかということをあらわしているように思います。
こういった人間のうぬぼれにただただ閉口させられるばかりです。