9月11日というのは、1973年9月11日に南米チリで起きたアウグスト・ピノチェトの軍事クーデターの日でもあります。bandeapart72 (@bandeapart72 )さんのツイートやTumblrで流れてきた記事をここにも記録して、当時の犠牲者とその後のピノチェト軍事政権の全体主義政治や新自由主義経済の犠牲になった人々を今一度、改めて悼みます。その記事で語られているのは、佐藤さんという日系ブラジル人の凄絶な体験です。記憶のための記録として、一部をお持ち帰りさせていただきます。これはチリの話というだけにとどまらず、この歴史はこれから形を変えて日本を覆う歴史の一部となるかもしれないという現実的危惧とともに。
●ラテンアメリカの政治 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/la/chile/sato.htm 佐藤清利さんは日系ブラジル人。チリ亡命中にアジェンデ政権の幹部としてクーデターを経験した。そして逮捕と虐殺を奇跡的に生き延びた。その講話は、息を呑むほどの迫力だった。 残念ながらテープをとっていなかったので、記憶に頼りながら再現する。文章の責任は筆者にある。 私は三度死を逃れた チリクーデターと佐藤さんの奇跡 私はサンパウロ大学に入って、まず「解放の神学」の信奉者として活動をスタートさせました。ブラジルに軍事政権ができて、それが抑圧的な態度をとるようになり、学生が抗議運動を強めたとき、私はそれを支持して、みずからも活動に関わるようになりました。 当局の弾圧が私の身におよんだとき、私はチリに脱出して国連のラテンアメリカ経済委員会で仕事をするようになりました。まもなく私は人民連合の活動に飛び込みました。 私は「解放の神学」の信奉者から科学的社会主義の信奉者となり、チリ社会党に入党しました。 そして人民連合政府の顧問となり、1973年9月11日まで、全国各地を政府専用機で飛び回っていました。 9月11日 朝 73年9月 11日、私はサンチアゴにいました。 朝起きたとき、ラジオで「バルパライソで海軍が反乱を起こした」との報道がありました。 クーデターのウワサは以前からあったので、私はただちに予定された集合場所に向かいました。(おそらく午前8時頃と思われる) 私の家はサンチアゴの西側にあり、集合場所は東側なので、車で街の中心部を横切りました。 街の中心を流れるマプーチェ川の橋のたもとで、人が殺されていました。容易ならないことだと思いました。 かねてからの手はずでは、クーデターが起きた場合、市民は武装することになっていました。私は政府の幹部だったので、武器を受け取るために集合場所に向かったのです。 しかし3時間ほど待っても武器は到着しませんでした。そのうち、市内の中心部で爆弾の音がし始めたので、「これ以上待っても無駄だ」と思い、自宅に戻ることにしました。 帰る途中、モネーダの大統領宮殿の裏側を通ったのですが、飛行機が飛んできて爆撃を始めました。それほど大きな飛行機ではありませんでしたが、建物からどす黒い煙が立ち上るのを見て、「もうこれはだめだ」と思いました。 あとで聞きましたが、集合場所で待機していた人々は全員が捕らえられ、殺されたそうです。間一髪でした。 午前6時にバルパライソの海軍が反乱を起こし町を制圧.市長とモンテーロ海軍司令官を監禁した。午前7時に空軍部隊がサンチアゴ市内に出動。労働者地域を制圧し活動家を一斉逮捕しはじめた。 午前7時55分にモネダ宮殿のアジェンデ大統領が第一回目の放送。「海軍の一部が反乱を起こした。サンチアゴにおいて軍の異常な動きはない。労働者の皆さんは職場に就き、工場に行き、平静を保ち、注意深く行動してください。そして共和国大統領の呼びかけと指示に従ってください」 午前8時、陸軍が行動開始。ピノチェト派が国防省を占拠。8時20分には国家警察軍のサンチアゴ地区司令官が反乱。 8時30分に「4軍軍事評議会」が大統領の即時辞任を求める声明。「これに従わない場合、陸と空から攻撃される」と警告。 9時20分、アジェンデが最後の演説。自らが犠牲となると宣言。 11時52分、モネダ宮に対し爆撃と砲撃が開始される。佐藤さんが見た黒い煙はこの時のことであろう。 私服集団に拉致される その日の夜、自宅を私服の集団が訪れました。軍でも警察でもなく、いわゆるパラミリタリーだと思います。 彼らは私を車に乗せ目隠ししました。西のほうに向かって走っていったと思います。だんだん街の音が消えて、車の音ばかりになりました。 時間的には、これからアンデスの山の中に入ろうというあたりで、車がとまりました。彼らと誰かが言い合っている声が聞こえました。 おそらく、検問に引っかかったのでしょう。彼らはそこを通過することが出来ず、もと来た道を引き返し始めました。 ふたたび街の音が聞こえてきました。 どこかの建物の前で降ろされ、中に入ったあと、目隠しを外されました。 彼らは地下室に向かう階段を下りるよう命令しました。私は背中に銃口を向けられながら降りていきました。 「殺されるな」と思いました。しかしそのときは殺されませんでした。 地下室に入ると、10人ほどの人が床に座らされていました。 しばらくすると、そのうちの一人が呼び出されて出て行きました。まもなくピストルの発射音がありました。その人は戻ってきませんでした。 次にもう一人が呼び出され、またピストルの音がしました。そうして次々に人々が去っていきました。最後に私が残されました。 とっさの大芝居 私は肌の色が違うので特別扱いされたのでしょう。尋問には高級軍人が当たりました。 私はとっさに嘘をつくことを思い浮かびました。これまでついたことのない大嘘です。 「わたしは国連職員だ。経済開発を援助するために派遣されている」 彼は証拠を見せろといいました。私は上着のポケットからECLAのIDカードを出しました。 とたんに彼の態度が変わりました。 「これはとんだ御迷惑をおかけしました。なにぶん混乱しているので間違いを犯したようです。この国にようこそ」 そういって私を解放したのです。まさに混乱しているからこそ、私は一命をとりとめたのです。 ちなみに、この取締官は後にDINA長官として恐れられたコントレーラス将軍でした。 ECLA: 国連の「ラテンアメリカ経済委員会」の略称。スペイン語での略称はCEPALとなります。佐藤さんはチリに来て最初はそこに勤めていました。しかしその後アジェンデの要請でECLAを離れ、政府顧問として働いていました。だからそのIDカードは本当は無効だったのです。 なんとなくそのままとっておいたのが、いざというときに役に立ったのです。 DINA: 国家情報局の略称。ピノチェト直属の陰謀組織で、活動家3千人の大量虐殺を実行し、国外でも元要人の暗殺に関与した。201年7月に最終判決がくだされ、マヌエル・コントレーラス長官は重大殺人の罪で懲役17年の判決を受けた。 第二回目のお話 ブラジリア西本願寺の佐藤さんが再び来日された。2週間ほど各地を訪問されて、最後の週末を札幌で過ごされることになった。 やはり、我々の興味はチリ・クーデターのときの体験談。「その後どうやって脱出したのですか?」とか、あのときの証言で、分からなかったことを根掘り葉掘り聞いていると、佐藤さんは突然、「あの話には続きがあるんだ」と言い出した。 「死にかけたのはあれ1回ではない」と佐藤さんは語る。 ふたたび死を覚悟する 私が死を覚悟したのは、実は3回ありました。 このあいだお話したのは、その1回目のことです。 あれは11日の夜から、12日の未明にかけてのことでした。その後私は家に戻り、脱出の支度に取り掛かりました。ラジオでは、活動家の多くがサッカー・スタジアムに連行されていると放送していました。 チリ国立競技場: 軍は人民連合の支持者4万人を国立競技場に集めた。米国人チャールズ・ホーマンもここで殺された。ビクトル・ハラが殺されたのは、これとは別のチリスタジアムで、現在はビクトル・ハラ・スタジアムと呼ばれている。 その最中に、警察の家宅捜索があったのです。ドアを開けると、制服の警官がずかずかと入って来ました。11日の連中と違い、警察の手入れですから、家中を捜して、怪しいものがないかどうか探すわけです。 警官の一人が二階に上がっていきました。それを見ていた私は、ハッと気がつきました。二階の書斎の本棚の裏には、チェ・ゲバラの写真が隠してあったのです。 もちろん見つかれば、即スタジアム送りで、その先には死が待ち構えています。 体中から汗が噴き出したのを憶えています。「これで終わりだな」と覚悟を決めました。 これが2回目に死を覚悟した瞬間です。 やがて、警官が二階から降りてきました。彼は上官に向ってこう報告したのです。「とくに異常ありません」 警官は無表情でしたが、緊張しているのがありありと分かります。「あぁ、この人は人民連合の支持者なんだ」と感じ取りました。 みたび死を覚悟する その後、私は警察署に連行されました。私は11日にやったのと同じように、国連職員であると申告して釈放を訴えました。結局私は署長の直接尋問を受けることになりました。 この人物は、国連職員というのを信用しているようには見えませんでしたが、面倒も好まない様子でした。 「お前は相当厄介なやつみたいだ。いつまで国内に留まるつもりだ。とっとと出て行け」、と言い捨てると、私を釈放しました。 私には妻と二人の子供がいました。クーデターの前から情勢が不穏になっていたので、ブラジルの母親が来て子供たちをアルゼンチンに連れて行きました。残るのは妻と二人だけです。 それに1960年に買ったおんぼろのフォルクスワーゲン。これはブラジルから脱出するときにも乗っていた車です。 翌日、私は出国カードを発行してもらうために役所に出頭しました。身分証を提示して待っていると、係官に呼ばれました。係官はわたしの顔を見ると、手元の書類と照合しました。そして、「出国カードは発行できない」といいました。 私は、「署長に出て行けといわれたんだ。早く発行してくれ」とせっつきました。係官はわたしの顔を見て、「だめだ。お前の名はリストに上がっている」と首を振ると、その書類を見せました。 そのリストは「要注意外国人」の一覧表でした。その上から二番目の欄に私の名がしっかり書き込まれていました。 やがて兵士がやってきて、私を拘束しました。そして留置場に連れて行こうとしました。 これが3回目に死を覚悟した瞬間です。 鉄格子の前まで来たとき、なんと目の前をあの署長が歩いてくるではありませんか。私は思わず叫びました。「署長さん、私に出て行けと言ったのを憶えていますね」 署長は私の顔をしばらく眺めていました。そのあと、部下に向って「出国カードを渡せ」と命じました。そして再び私のほうを向いて「とっとと出て行け」と言いました。 アンデスを越える 私と妻は、フォルクスワーゲンに積めるだけの物を積んで、サンチアゴを出発しました。あとは車がアンデスを越えられるかどうかです。 (中略) チリ・クーデターについての若干の解説 1.チリの革新の伝統 チリ・クーデターをリアルタイムで知っている人は60歳以上でしょう。 佐藤さんの話はものすごい迫力ですが、知らない人にはちょっとわかりにくいかも知れません。若干解説しておきましょう。 チリは太平洋を挟んで日本の向かい側の国です。日本では地震や津波の関係でおなじみです。 南北に細長い国で、羽を取ったトンボのような形をしています。トンボの胸の部分は砂漠地帯ですが、銅の鉱山があり、産業の中心となっています。尻尾の方は南極に近く寒いところです。その中間が農業地帯となっており、首都サンチアゴなど人口が集中しています。 19世紀の末から銅や硝石を中心に産業が発達し、労働者の割合が比較的高くなっています。また教育程度が高く労働運動も盛んで、左翼勢力も強いところです。 2.人民連合政府の誕生 69年の大統領選挙では社会党・共産党・労働組合を中心に「人民連合」が結成され、サルバドール・アジェンデ(医師)が大統領に当選しました。 今でこそ、ラテンアメリカでは左翼政権が当たり前になっていますが、選挙で左翼が政権を獲得するのは第二次大戦後では初めてのことでした。 キューバのカストロ政権を潰そうとしてきたアメリカは、第二のキューバがアメリカ大陸に登場するのを許すことが出来ませんでした。 当時のキッシンジャー国務長官をトップにアジェンデ政権転覆計画が立てられ、さまざまな破壊活動が行われたのですが、いずれも民衆の抵抗により失敗に終わりました。 これらの計画は、今では秘密文書が公開され、かなり細部まで明らかになっています。 人民連合政権は、これらの策動を打ち破りながら、民衆のための政策を推し進めてゆきます。佐藤さんはその計画の策定や実施に関わったのです。 73年に入ると人民連合政権に対する反対活動はますます盛んになります。しかしチリの軍部は立憲主義の立場を堅持しました。 「別に左翼が好きではないが、憲法を守り、合法的に選ばれた政府の支持には従う」というのが軍の基本的立場でした。 そこでアメリカと結びついた軍の右派は、政府を倒す前にまず軍の立憲派を追い出そうとしたのです。 その中心となったのが陸軍司令官のアウグスト・ピノチェトです。彼は忠実な立憲派のふりをしながら、陰に回って右派を組織しました。もちろんアメリカがそれを支援したのです。 3.9月11日・クーデターの開始 アジェンデは、クーデターの危険は予想していたものの、ピノチェトがその中心だとは気づかなかったようです。 しかし大統領宮殿が戦車により包囲され、その指揮官がピノチェトであるとわかった時、アジェンデは死を覚悟したものと思われます。 午後2時ころ、軍は大統領宮殿に突入。アジェンデは自ら手にした銃で自殺しました。 ここまでなら普通の軍事クーデターです。ここからがチリの特別な展開になっていきます。 ピノチェトは左翼の絶滅作戦を展開するのです。そして恐怖政治を敷きすべての権力を自らの手に集中していくのです。そのためのピノチェト直属の機関が国家情報局(DINA)であり、その長がコントレーラスです。 その後の3ヶ月で1200人が殺されました。(以下犠牲者の数は推定であり、確実ではない。アムネスティは4万人が虐殺され,10万人が逮捕,拷問を受けたとしているが、この数字は誇大である) 11日朝からすでに左翼刈りが始まっており、国立サッカー場(7千人)などが臨時収容所となりました。ここでは、火を押しつける,電気ショック,性的暴行,排泄物を食べることの強制,凍った水中へ投げ込ま れ,日光のもとで裸で長時間立ち続けさせるなどの拷問が行われたことが確認されています。 それ以外にも至るところで多くの人が殺されました。 クーデター後数日の間に市長6人,知事4人,市会議員16人,国会議員2人が殺害もしくは行方不明となりました.ほかに人民連合幹部31人,地域組織指導者140人,政府高級幹部30人が殺害されています.こちらは後に「誠実と和解委員会」が報告した数字ですから確実なものです。 殺されたのは左翼政党の活動家ばかりではありません。聖職者の多くも犠牲となりました。アルシナ司祭は病院の事務長を務めていましたが、警察軍に連行されました。後に彼の死体がマポチョ河畔で発見されましたが、体中に拷問の跡があり、背中には10発の弾丸 が撃ち込まれていました. 裁判所の対応がひどいものでした。最高裁長官エンリケ・ウルティア・マンサノがみずから、クーデターを支持するとの声明を発表します.トップがこうですから、裁判所は人身保護令状の発行の訴えをことごとく棄却していきます。 想像もできないことですが、裁判所が大量虐殺を奨励したのです。これで勢いを得たピノチェト派は、本格的に活動家の抹殺作戦を開始しました。 4.大虐殺作戦の始まり 16日には労働者街への一斉摘発が始まりました。下の写真は射殺された労働者に奥さんが取りすがっている場面の隠し撮りです。 この日、ビクトル・ハラもチリ・スタジアムで虐殺されました 南部のオソルノでは右翼の「自警団」により13人が殺されました。警察は活動家を逮捕した後、自警団に引き渡しました。彼らは橋の上まで13人を連れて行って、射殺した後河に投げ込みました。 ロス・アンヘレスでは製紙工場の労組活動家ら19人が軍隊に連行された後行方不明となっています.パイネの農園では労働者18人が連行されました。数年後に無名墓地から射殺された遺体が発見されています。 労働運動の中央指導者200名が逮捕されました。この内16人は殺害されました。軍事政権により逮捕された労働者のうち消息不明のものは2800人に上るとニューズウィークが報道しています。 パブロ・ネルーダはノーベル文学賞を受賞したチリを代表する詩人です。共産党員でもあったネルーダは心臓病で療養中でした。病状が悪化して救急車で搬送中、軍につかまり、死ぬまで放置されました。 チリのカトリック教会の最高指導者であるエンリケ・シルバ大司教の家も襲撃を受けます。 この後延々と虐殺の記録は続くのですが、こういう状況の中で佐藤さんが逃れることが出来たのは、まさに奇跡というほかありません。
(転載ここまで)
過去の関連記事。
■チリ、1973年9月11日
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-866.html 2008-09-11
■9月11日の黙祷
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1983.html 2010-09-11
■1973年のチリの軍事クーデターから40年。軍事政権と新自由主義の悪夢を思い、これからの日本を思う。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4739.html 2013-09-11
●国会議員への投書のための「議員一覧ポータルサイト」 (1)→
http://taro-yamamoto.jp/お知らせ/【反tpp・反秘密保護法!】全国街宣キャラバンス/ ; (2)→
http://publistella.jp/ ●マスメディアへの投書のための「News for the people in Japan」マスメディア問い合わせ用リンク集→
http://www.news-pj.net/link/media.html ●他の社会系ブログに行くにはうちの「私的リンク集 (適宜更新)」経由で→
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-136.html
関連記事
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>そもそも日本が戦争が出来村野瀬 玲奈軍事力強化をしないと攻撃されるかもしれないと心配の皆さん。攻撃的軍事力保有が日本を安全にしない理由を簡単に説明します。Re: No title>北朝鮮が怖いのはミサイルとテロぐらいで正攻法で
来られて怖いなんて誰も言ってない。
「正攻法」って具体的に何かよくわかりませんが、ミサイルが怖いなら怖いんじゃ村野瀬 玲奈反戦デモに参加した学生を退学処分にする愛知大学は異常すぎる。意義あるのか反戦デモっつっても日本が他国の軍事的脅威に
なると思っているのかな。
そもそも日本が戦争が出来ると思っている者が
いるのが驚く。
まず間違いないのが日本が他国に戦R2軍事力強化をしないと攻撃されるかもしれないと心配の皆さん。攻撃的軍事力保有が日本を安全にしない理由を簡単に説明します。No title北朝鮮が怖いのはミサイルとテロぐらいで正攻法で
来られて怖いなんて誰も言ってない。
そんな長者番付よりも信用ならないデータだけ
では事実が見えない。
自衛隊は多くR2自民党無くして杉田水脈「議員」無し。だから、#杉田水脈の議員辞職を求めます 。そして、それなら同時に #自民党の与党辞退を求めます 。#自民党が滅びなければ日本が滅ぶ杉田水脈「女性はいくらでもうそをつけますから」★1970年代前半の時期に米国のニューヨーク市で、性犯罪分析特別班を設置し、女性の警察官を被害者の面接に当たらせたところ、同市における強姦罪の虚偽告発率は2%であり、檜原転石反戦デモに参加した学生を退学処分にする愛知大学は異常すぎる。白バラの祈り>Takeshiさん
戦後、ドイツではショル兄妹を顕彰するために学校の名前に「ショル兄妹記念」と名付けられていたりしますよね。
そして、それが書籍や映画になり、広く語る津木野宇佐儀反戦デモに参加した学生を退学処分にする愛知大学は異常すぎる。白バラ事件を思い起こさせる。 ミュンヘン大学でショル兄妹たちは反戦ビラを巻きちらしました。大学の用務員がビラを拾ってナチス当局に届け出ました。ショル兄妹たちは民族裁判所で「国家反逆罪」に問Takeshi言い続ける。 #汚染水を海に流すな #汚染水の海洋投棄に反対します #汚染水の海洋放出に反対します #汚染水の海洋放出を直ちに中止せよソロモン諸島の首相が日本の汚染水海洋投棄を非難 国連総会において,ソロモン諸島のマナセ・ソガバレ首相が日本の汚染水の海洋投棄を非難しました。IAEAの処理水をめぐる報告書についても,不十分だとしたうえで,「原発Takeshi反戦デモに参加した学生を退学処分にする愛知大学は異常すぎる。No title 反戦デモに参加したことで学生が懲戒を受けるだけでもすさまじいのに、一番重い退学処分とは・・・。愛知大学は一体何を考えているのか。これが容認されれば萎縮効果は甚クテシフォン維新・鈴木篤志市議候補について (メモ)維新の会の池上卓は公設秘書として2人の市議を採用 維新の会の池上卓議員(大阪10区)は,公設秘書として現職の高塚市議2人を採用していたとのこと。国会議員の秘書に関しては法改正で兼職が禁止され,例外的に兼職届が出Takeshi反戦デモに参加した学生を退学処分にする愛知大学は異常すぎる。No titleそのうち「焚書」とか起こりそうで、冗談じゃなく怖いです。
まさに「新しい戦前」…津木野宇佐儀現行の健康保険証の圧勝、マイナ保険証の惨敗。 #現行の健康保険証を残してください #保険証廃止はありえない #サントリー不買運動No title新浪と成田が格差拡大を正当化する対談をプレジデントオンラインでほざいています。
まあ、救いようのないバカばっかりです。アンドリュー・バルトフェルド弁護士ドットコムタイムズに #維新 の橋下徹を登場させるのはおかしいのではないか。No titleいかにもそれっぽい名称を名乗った(所謂弁護士連合会とは無縁の)営利目的の組織じゃないですか。何せ株式会社ですからね。
ここの発するニュースなんかを見ててずーっと別人28号言い続ける。 #汚染水を海に流すな #汚染水の海洋投棄に反対します #汚染水の海洋放出に反対します #汚染水の海洋放出を直ちに中止せよ二重基準の適用問題No. 1919 福島の核廃棄物:ロシアを非難し、日本を承認
投稿日時: 2023年9月20日
Fukushima’s nuclear waste:Stigmatising Russia, approving Japan
by Richard Cullen
h檜原転石日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart.「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」
何度でも引用されるヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の言葉ですが、日本ではもっともっと使われるべき言葉ですよね。
付け足津木野宇佐儀英霊には感謝してはならない。英霊には謝罪しなければならない。英霊は讃えられ,傷痍軍人は侮辱・差別された。 わたしがとても幼いとき,神社で祭があると,神社の階段下に軍帽をかぶり,白い服を着て腕や足のない傷痍軍人が恵みの金を求めている姿を見たことがあります。実際に見たTakeshi日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)Re: タイトルなしハンドルネームを書けないチキンの方がこんなことを書きこまれました。そのコメントは承認しませんが、こちらに丸ごと引用して、私の感想を書き加えます。
(引用開始)
村野瀬 玲奈東京大学出身者が日本の政治を失敗させ、日本の改善や進歩を阻んでいる。夏目漱石に対する疑問 東京帝国大学出身の夏目漱石は日本が誇る文学者・思想家とされていますが,福沢諭吉がそうであったようにレイシストを思わせる文章を残しています。
1909年,夏目漱石Takeshi自民党の聞く力は、自民党に政治献金をして選挙協力をする業界や企業にしか発揮されない。自民党議員は支持者にしか目が向かない。 「ドリル優子」が選挙対策委員長になったことが岸田の内閣支持率上昇を妨げているようです。ドリル優子が事件について弁明したのは地元の支持者に対して行った一回かぎりTakeshi個人の自由が嫌いな日本人「日本人」の枠は自由自在なのか。 毎年ノーベル賞ウイークになると,今年日本人で受賞するのは誰かと話題にするのがマスコミです。南部陽一郎さん,真鍋淑郎さん,カズオ・イシグロさんは日本国籍を離脱しTakeshiAV業者による被害を予防・救済するため、AV新法論議では被害者側の要望を積み残してはならない。特に、「スカウト全面禁止」は必須。AV事業は「新たな性奴隷制度」である。 AV被害者のために任意団体「ポルノ被害と性暴力を考える会」(PAPS)と「NPO法人 人身取引被害者サポートセンター(LH)」があるそうです。前者はITエンジニアとソーシTakeshi日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)日本人の攻撃性の特徴とは 台湾での霧社事件も原住民族の殲滅を狙った植民者としての日本の軍事行動でした。
弱者だけではなく,権力者に対しても日本は不法・違法な手段で殺害し排除してきましTakeshi中国人が大日本帝国から過去の同胞が受けた被害を悼む行動は「反日」でしょうか?(1931年9月18日、柳条湖事件)No title『中国人が大日本帝国から過去の同胞が受けた被害を悼む行動は「反日」でしょうか?(1931年9月18日、柳条湖事件)』に対する意見
http://muranoserena.blog91.fc2.com/bloewkefc中国人が大日本帝国から過去の同胞が受けた被害を悼む行動は「反日」でしょうか?(1931年9月18日、柳条湖事件)No title以前、第二次世界大戦に関して、日本では最後を云々するが、ドイツでは始まりを問題にし議論する、と聞いたことがあります。
日本では盧溝橋事件や柳条湖事件等はほとんど津木野宇佐儀日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)差別語「ブラック」問題と「黒歴史」>私のコメントなどは書きません。ただ、読んでください。なかったことにできない黒歴史を、日本人として知ってください。
日本低国の「左翼」・リベラルの近年の完全崩檜原転石公文書改ざんをさせられた赤木俊夫さんの無念の死について責任を問うことを拒否する裁判所と、公文書改ざんをさせた政府は共犯だと考えるしかない。自らの処世術と裁判官の処世術山崎雅弘:この件も、BBCや国連人権機関が関心を持ってくれるまで
これって多くの人が気づきもしない、山崎雅弘の処世術発言。
私にとってBBCなどテロ国家英国の広檜原転石公文書改ざんをさせられた赤木俊夫さんの無念の死について責任を問うことを拒否する裁判所と、公文書改ざんをさせた政府は共犯だと考えるしかない。日本の司法は死んでいる「沖縄の司法は死んでいる」とよくいわれます。
かつて米国統治下の沖縄では、裁判権さえ米軍に奪われており、米兵が犯罪を犯しても米軍基地に逃げ込めば沖縄の警察は手も閉口日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)歴史改竄主義者の台頭関東大震災時の本庄事件、平頂山事件は、日本人集団が起こした残虐な事件であり、なかったことにできない黒歴史です。
以前の日本はこういった黒歴史に謙虚に向き合おうと閉口日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)No title『日本人集団が起こした残虐な事件の例(メモ)』に対する意見
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-9364.html
セロトニントランスポーター遺伝子というものがewkefc「靖国神社思想の本音」 (メモ)侵略戦争の証拠=田中上奏文 極東軍事法廷で中国側証人が「日本の計画な侵略政策」の証拠として提出した「田中上奏文」というものがあるそうです。これは田中義一が裕仁天皇に対満蒙強硬策を上奏したTakeshi