コメント
FAQ
ただ、今のところ僕の方で書いたことのある、まとまった形での死刑廃止論は、先に取り上げてくださったブログの記事の他は、ホームページのコラムで書いたものだけです。HPの方はトラックバックが送れないので、このコメント欄に合わせて記載します。
「通りすがり」のコメントを再考する
http://blog.goo.ne.jp/civil_faible/e/8aeb13b58233968e267079404eb7418e
2007年 政策提言のようなもの③ 4 死刑制度廃止
http://civil-faible.hp.infoseek.co.jp/21_20070924.htm
使えそうなら(部分的でも)、どうぞご自由に使ってください。
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2002/10/31/wgia31.xml
http://image.blog.livedoor.jp/muki2007/imgs/4/0/40bf7d56.jpg
http://image.blog.livedoor.jp/muki2007/imgs/b/9/b9259cb9.jpg
日本が犯罪者天国とかいうのはもはや妄言の類だと思います。
こういうニュースは一切報道されないことはおかしいと思います。アメリカがどうだの中国がどうだの、死刑廃止論者がどうだのとか、刑務所が緩いとかそんなわけのわからないことばかり。
もうその時点で日本のマスコミは終わっているんですよ。この前の加の大量殺人鬼の件にせよ、AFPニュースぐらいでしか報道されなかった。
http://www.geocities.jp/y_20_06/lwop.html
>みなさま
ニュースがかなり恣意的に取捨選択されて日本のマスメディアに乗せられているというのはその通りだと思います。たとえば、ヤフーニュースのヘッドラインを日本と西欧のものと比べてみるとはっきりわかるというのが私の印象です。たとえばフランスのヤフーではヘッドラインに政治や社会の大きな動きが来ていますが、日本のヤフーでは三面記事やスポーツ、芸能ネタが多くを占める。日本は視聴率、クリック率第一主義、多くの諸外国はニュースの価値をより重視してニュースを発信しているように思います。しかし、それでも、今のサルコジー支配下のフランスでは、サルコジーの息のかかった報道機関がサルコジーの意向を反映した報道の仕方をしている、というのは私のフランスの友人の嘆きです。
>レイランダーさん
ありがとうございます。私の記事よりいいかもしれませんね。ありがとうございます。もちろん採用させていただきました。今後も情報がありましたらお知らせください。
死刑FAQ、本当によい記事だと思います。ぜひ充実させていっていただきたいと思います。
微力ながら、僕が普段から抱いている疑問をいくつか挙げます。この内いくつかは、僕自身悩んでいて、まだ答えが出ていない問題です。
Q: 死刑反対論では、死刑の代わりにどのような刑を考えているのか?
(釈放のない重無期刑を導入するのか? それとも
犯罪者の更正に力を注いで、全て有期刑にするのか?)
Q: 重無期刑を導入するなら、それは死刑に比べて優れていると言えるのか?
(囚人には自殺は許されません。
ただ寿命が尽きるまで刑務所暮らしを強いるのも
残酷で、消極的な死刑とはいえないでしょうか?)
※「冤罪」が答えかと思いますが、代案に重無期刑を
考えるなら、FAQには欠かせないQだと思います。
Q: 有期刑にするなら、刑期の上限を決めるのか? 決めるとしたらどのくらいなのか?
(具体的な数字よりも、一部の外国で有期刑が
「実質的な無期刑」として運用されている実態を
どう考えるのか、それを防ぐべきなのかどうか、
を悩んでいます。懲役100年など。)
※「実質的な重無期刑」を皆無にできないのであれば、
一つ前の質問「重無期刑を導入するなら…」にも
答えが必要になります。その意図での質問です。
Q: 死刑反対論の立場として、応報刑論をどう考えるのか? 罰として苦痛を与えるという考えは一切認めないのか? それとも一定限度認めた上で、死刑は行きすぎだと考えるのか?
(思考実験です。仮に優れた方法があり、
どんな凶悪犯でも一瞬にして改悛させ、
絶対に再犯を防げるとします。
そのような社会では、一切の刑罰が不要となるのでしょうか?)
Q: 国際社会の風潮や人権団体の主張は、「死刑が“良心の囚人”に適用される」ことを論拠の一つとしていると思います。この点を踏まえても、殺人犯にしか死刑が適用されない日本の現状で、これらの国際的な動向は考慮に値するでしょうか?
(これは既存のQ「他国のまね…」への再反論になりますね。)
死刑廃止論にからい質問の数々で申し訳ないのですが、僕は決して「確信的な存置論者」ではありません。 死刑の犯罪抑止効果は信じていません。また「冤罪」に関する論点は、死刑廃止の強力な論拠だと認めています。
ただ、「確信的な死刑廃止論」に傾くのを押しとどめている疑問の数々を、挙げさせて頂きました。
>birds-eyeさん
なかなかすぐには手が回りません(汗)が、心に留めておこうと思います。
お返事をそれで終わらせるのも無愛想ですので(笑)、一つのポイントについてだけ私の思い(「答え」ではありません)を申します。
>Q: 死刑反対論では、死刑の代わりにどのような刑を考えているのか?
(釈放のない重無期刑を導入するのか? それとも
犯罪者の更正に力を注いで、全て有期刑にするのか?)
「死刑反対」の人にも、代替刑についてはいろいろな案がありえます。それぞれの案にはまた、賛成、反対といろいろ意見が出てくると思います。また、代替刑についてのこの問いは死刑反対者だけが答えなければならない筋のものでもなく、社会全体で考えることができる問いだと思っています。そういう意味で、「死刑の犯罪抑止力」のような「事実」に関する質問とはちがった方法でご指摘の問いを扱うことになるかもしれません。
今後も気がついた点を指摘いただければ幸いです。
僕も自分のブログで扱いきれなかったネタを丸投げしただけですので(苦笑)、どうかごゆっくり。
>代替刑についてのこの問いは死刑反対者だけが答えなければならない筋のものでもなく、社会全体で考えることができる
おっしゃるとおりです。死刑の賛成・反対にかかわらず、この問題の議論をする全ての人に、「犯罪者の懲罰と更正」についての全体的な展望を持ってその中で死刑制度を考えてもらいたいです。
こういうニュースも、大切にしたいです。
http://www.asahi.com/national/update/0105/TKY200801040265.html
>birds-eyeさん
ご紹介の記事、見てみました。確かに、こういう施策は大切ですね。刑務所の中で心をすさませて職業能力もおざなりにしか身につけさせないでいるなら、どうして出所者が社会の中に居所を見つけられるか、という話ですからね。
メモのために記事の趣旨を一部引用。
----以下引用----
刑務所職業訓練、「ガテン系」脱却 エステや設計も
2008年01月05日22時29分
エステティシャンの養成やコンピューターを使った設計(CAD)の技術指導――。刑務所内で受刑者が、そんな職業訓練を受けられるようになる。これまでは「懲役刑」の趣旨を踏まえ、溶接や塗装、配管など、「ガテン系」と呼ばれるような「きつい職種」が中心だった。しかし出所後の就職しやすさをより重視して、新しい職種を導入することになった。
法務省は新年度、女性だけを収容している栃木刑務所(栃木市)に、エステティックサロンで働くエステティシャンを養成する「総合美容技術科」を新設する。
首都圏のサロンからプロのエステティシャンを刑務所内に招き、パックや脱毛、マッサージ、化粧の施し方などを半年間、計720時間で学ぶ。接客の方法も身につけ、修了時には日本エステティック協会の証明書を受けられる。
このほか、二つの刑務所にCAD技術者の資格を取るための科を設ける予定。洋服の型紙を作ったり、家具を設計したりできるなど様々な業界で需要の高い技術だ。
(以下略)
勉強になりました
一応すべて読みましたので死刑に反対の方の考えが理解は少しはできたかと思います
そして、死刑を無条件に肯定する方の書き込みは多いのも興味深かったです。正直肯定するのならもっと綺麗に肯定すればいいのにと思ってしまいました。なんか醜い罵りが目立った気がします。
で、理解しても私は未成熟ですから今は死刑を肯定せざるをえません。紹介されているブログのかたに言わせたら幼稚な感情論や暴論なのでしょうが、、、身内がやられたら(事故はのぞき<事故の定義とかは勘弁してください>)どんな手段を使っても、、、と思ってしまいます。
まだ勉強したいのでもっと充実させてください。また見に来ます。
>朱麗さん
そのように読んでいただければ私も苦労して死刑廃止の記事を書いているかいがあります。
ただ、これは何度も言わせていただきたいのですが、私自身は感情論を切り捨てるつもりはありません。犯人を死刑にしたいという被害者遺族の感情のことも人間の自然な感情であると考えます。そもそも、私の別の記事でも書いていますが、たとえば、裏サイトで知り合った3人による名古屋の女性殺人事件については、報道されていることが事実なら「こんな連中は死刑だ!」という心の声は私の頭の中をやはりよぎるのです。
だけど、だけど、制度としての死刑には、このブログの中でも何度も書いている通りの理由で、また、私も紹介しているほかの死刑反対者が書いている通りの理由で賛成できない、というわけです。
これからもほかの人の意見も紹介しながら、私自身も頭を絞りたいと思います。朱麗さんのような方の思いを尊重しながら、そのような方にも真剣に読んでいただける記事を探したいと思いますし、私自身の言葉も充実させたいと思っています。
今回は、死刑廃止の主張にはこういう理由があるということを朱麗さんにわかっていただいたことで私も報われた思いです。
これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
コメント欄にて失礼
TBが通らないうえに、該当のQがないという哀しい「戯れ言」で何の説得力もないのですが、一応廃止の意志を示す為に、コメント欄にて細々と主張したいと思います(爆)。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200801/article_3.html
話の流れで(TBについて)
死刑FAQとは関係ない内容なので、お読みになった上で消していただければ幸いです。(折り返しのご質問などがありましたらその限りではありませんが)
>みなさま
記事を書いて知らせていただきましてありがとうございます。該当の「Q」はdr.stoneflyさんが適当につけてください。^^
>birds-eyeさん
webryからのトラックバックをはじくような設定にはなっていないのですが、おかしいですね。こちらfc2からは通るのに。トラックバックURLを二つ入れてみたり、仮言及URLを入れたりして何度か試してみてください。
こんばんは
まあ、私なりの廃止論で説得力無いかもしれませんがトラックバックも送らせていただきました。
よろしくお願いしますね。
ビデオニュース.comで
http://www.videonews.com/on-demand/371380/001318.php
マル激トーク・オン・ディマンド 第374回(2008年05月31日)
「なぜ日本人は死刑が好きなのか」
あるべき姿の強制
死刑に賛成するのは人殺しだ。
死刑に賛成するのは人道に反する。
→死刑賛成論者は罪人だ。
罪人は再教育されなければならない。
罪人は社会を受け入れなければならない
罪人は真人間にならなければならない
→死刑を望むような病んだ心は再教育されなければならない。
イヤな奴に死んでしまえと思うことも許されない。そんな世界なんて・・・。
>KYさん
リンク先お読みじゃないですよね?
まと
村野瀬様の文章はかなり抑制がきいていると思いますが、リンク先を拝見させていただきますと・・・
「アホとしか思えない」
「(死刑があるから)日本は民主主義国家ではない」
「犯罪的無知」
等々、死刑存置派をこれでもかと罵倒する言葉にあふれております。
これは実は「世の中に逆らって死刑廃止を主張するかっこいい俺様」を演出したいので、本当に死刑廃止になったり死刑廃止論者が増えては困るからわざと感情的反発によって存置派が増えるようにと書かれたのではないかとさえ思います。
とりあえず私の理解では、死刑廃止論の主要ポイントは
・死刑は○○しない(犯罪抑止、犯人の更正、被害者の救済等々)
・だから死刑は廃止。
・死刑廃止しない日本国民は民度が低くて世界の恥さらし。死刑賛成者は人殺し。
これに対して死刑存置派の意見といえば(私の身近での話ですが)
・ひどい奴は死刑。すっきりする。わかりやすい。
・だから死刑は存置
・死刑廃止なんて言う奴は犯罪者の味方。死刑反対者は人殺しの味方。
・・・・もしかして、死刑廃止論者は単に日本をdisりたいだけで、別にネタは何でも良いのでは?
KYさんへ
>→死刑賛成論者は罪人だ。
>→死刑を望むような病んだ心は再教育されなければならない。
とまでは言っていないですよね。
KYさんにとっては「言われたも同然」かもしれませんが、やはり売り言葉に買い言葉でなくて、冷静にいきませんか?
ましてや
>イヤな奴に死んでしまえと思うことも許されない。そんな世界なんて・・・。
というのは、死刑反対派にとっては、まだ「そんな世界」にはなっていませんし。
だって、「許されない」っていうのは、死刑賛成って言っただけで逮捕されちゃう世界ってことです。
まだ「死刑賛成!」って声高々にいえるのですから、大丈夫ですよ。
死刑反対派から冷たい視線を投げかけられるだけですもの。
ただし、「生きさせろ!」と歩くと、逮捕されちゃう世の中なので、気をつけないといけないのは確かです。
一つ質問
『代わりに終身刑を創設し死刑を無くす。もしくは代替刑を創設してから死刑の是非を問う』
と主張される方が死刑廃止論者には皆無に近いと思いますが
>必殺通行人さん
「死刑廃止」というカテゴリーの記事、読んでないですよね。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-category-4.html
今回のあなたのコメントに対しては、中でもこの二つを。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-743.html
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-858.html
> 以前にも訊いたと思うのですが、死刑廃止を訴えるのは人それぞれの考えなので構わないと思うが、『死刑に代わる刑』について何も主張されないのは何故ですか?
死刑に替わる刑、って「仮釈放のない終身刑」のことでしょうか。(それとも、ほかに何かありますか?)
もし「仮釈放のない終身刑」のことをおっしゃっているのなら、上にリンクした二つの記事がそれへの答えです。現行の終身刑が「仮釈放のない終身刑」になっている現実を踏まえれば、「死刑に替わる刑」を新たに創設する必要は薄い、もしくは無い、と思います。
必要なのは、まっとうに働けばぜいたくはできなくとも一生安心して暮らせる社会を作ること、そのような社会を作れる考え方をはぐくむ民主的教育を行なうこと、社会の中に連帯感をはぐくむこと、犯罪被害者やその遺族への精神的ケア、経済的支援を充実させることです。
> 『代わりに終身刑を創設し死刑を無くす。もしくは代替刑を創設してから死刑の是非を問う』
> と主張される方が死刑廃止論者には皆無に近いと思いますが
皆無どころか、国会議員の中の死刑廃止派の中に「仮釈放無しの終身刑を創設する」という議連に参加する動きがあることは上にリンクした二つの記事で触れました。
もっとも、その議連は死刑維持派も加わっていますから、先行きは不透明だと私は思います。「死刑廃止と同時に『仮釈放無しの終身刑』を暫定的に新たに導入した後、現行の終身刑(仮釈放の可能性あり)の運用が現実には『仮釈放無しの終身刑』に近くなっていることをクローズアップして、その運用の適正化をはかり、そのうえで、新たに導入した『仮釈放無しの終身刑』を数年かけて廃止すべく法制度を整えてゆく」という方向性なら、私としては100%賛成ではないものの考慮の余地はあると思います。
いずれにしても、もう少し勉強してからコメントしてほしいと思いますが...。
KY
・反省刑
本人の歪んだ価値観、経験不足、知識不足、共感する力の不足、などを徹底的に親身になって補い、普通の文化的な一般生活を送ることのできる教養と知性と理性と道徳を養うまで徹底的に教育する。
→そして「まとも」どころかさらに高いレベルに達した受刑者に、今度はその自分の理性によって自分の犯した取り返しのつかない犯罪について真摯に、徹底的に、完全な論理的結論が出るまで反省させる。
→そして反省したのなら罪を感じて死ね、と言いがちな社会に対しても、自死以外の方法で自分がどのように自分の犯した犯罪に対して責任を取り、どのように罪の償いをするのかを論理的かつ理性的に、相手の納得が得られるように穏やかに話すことができるようになるまで徳育を施す。
→そして出所の暁には、それまでに培った罪の真の意味での反省と贖罪を実行すること。
以上
んー、いっそ死刑にして世界から解放してやるほうがよほど優しい気が・・・(笑)。
おや?
もう一度
『何故死刑廃止だけを先に訴え、終身刑創設の方は力を入れないのか?』
あなたのブログで見た記憶が無いのは気のせいですか?
筋道として終身刑創設してから代替刑ができたから死刑を廃止しよう、という論調なら死刑存続派も理解しやすいと思いますが、そのような論調は見たこと無いのは何故?
なのに、もっと勉強しろと言われてもねぇ(笑)
少なくとも『不都合なコメントは表に出さない』って事をしている方が他人に言える台詞なんですか?
>必殺通行人さん
消してませんよ。コミュニケーションしがたい粘着質な人だと判断したので対話は無意味だと思っただけで。
> 『何故死刑廃止だけを先に訴え、終身刑創設の方は力を入れないのか?』
力を入れている国会議員たちはすでにいる、って言っています。私の意見は、現在の無期懲役が事実上の終身刑となっているから、そのうえにあえて仮釈放のない終身刑を創設する必要を特に感じない、という趣旨で書いていますけど。
人の言うことをまったく読まないあなたとの対話は不可能だと感じます。
意義深い死刑廃止論議
理由1 冤罪、或いは、誤った量刑判断の場合に、死刑を執行してしまうと取り返しがつかない
理由2 死刑制度が、確かに殺人犯罪を抑止しているという証拠はない。
しかしながら、それを死刑廃止以外の方法で補う事は可能であると考えます。 それは、むしろ死刑廃止以上に重要な課題と言えます。
対策1 冤罪を極力避けるために、疑わしきは罰せずという原則を徹底する。
( 現実には、日本の刑事裁判の99%が有罪になっており、これを是正する事の方が、死刑廃止よりも先に解決すべき問題でしょう。)
対策2 犯罪を抑止するための教育、啓蒙、更正施設充実、貧困撲滅の施策を強化する。
現実的には、死刑を廃止するために乗り越えなければならない壁は非常に高いと言わざるを得ません。 (世論調査で)国民の7~8割が死刑制度を支持しているのは、それなりの理由があり、それらを克服しなければ死刑廃止は出来ません。 幾つかを過剰書きにしてみると、
1. 被害者に対する相応の補償や家族などの被害感情にどう対処するのか
2. 死刑に代わる罪状(例えば、釈放の無い終身刑)を決める必要がある
3. 死刑より軽い刑も、全般的に引き下げるのか
4. いかにして、刑務所に更正施設としての機能を持たせられるのか
個人的には、特に 4.の問題は大きいと思います。 何故なら、犯罪者が罪を反省し、償う為に一生懲役に服すという「人間の更正」が出来ないのなら、何のための死刑廃止なのかということになるからです。
>もえおじさん
ここでは一つだけお返事させていただきます。「死刑に代わる罪状(例えば、釈放の無い終身刑)を決める必要がある」かどうかです。
本文でリンクした記事の中にもありますが、現在の終身刑制度のもとで、早期の仮釈放どころか数十年間も服役している者がかなり多いという事実があります。つまり、新たに「仮釈放のない終身刑」を導入することは「最初から希望のない刑」を死刑の上に付け加えることにほかなりません。したがって、そのような刑を創設する必要性が薄いと私は思いました。現在の終身刑制度のもとで、仮釈放できるケースかどうかをきちんと吟味すればそれで十分である、という結論に私は至っています。
うおぉぉおお、やべぇ。
記事中でのリンク、ありがとうございます。
拙ブログの駄文をこのような場でご紹介いただき、光栄の限りです。
まさかこういう不意打ちを食らうとはなぁ。
……もうちょっと論理的に練り上げてから書けばよかった。
あーはずかし。
>sutehunさん
油断大敵。爆
軽々しい事は言えない問題ですね
村瀬さんにお詫びいたします。
個人的に幼女誘拐・殺人事件で有名なM君(名前は控えますね)事件に思うところがあったので、死刑判決なども読んだりもしたですが、正直な本音として自身の罪と向き合わない(向き合えないケースもですが)を本当に死という刑罰が妥当なのか?という疑問があったのは事実です。
これから刑事裁判となるものとしては、やはり秋葉原の事件も論議の的となるでしょうが、私個人の意見としては生ある限り自身が行った行為に向き合うべきという意味で「仮釈放のない終身刑」が妥当だと考えます。
実際のところ、死刑確定囚については執行されないままのケースも多く見られ、その意味において死刑が「仮釈放のない終身刑」となっているケースが見られる事も理由にあります。
もっとも国へのテロ行為に該当するもの、日本で言えばオウム真理教のサリン事件や米国で発生した連邦ビル爆破事件のような事例については、判断が出来かねます。
これについて死刑廃止を求める事は、正直厳しい気がします。
最終的にはこの国に住まう皆の判断になるでしょうが、世論合意については難しい問題があまりに多いというのが正直な本音です。
MBD
更正というのは、つまり、殺人その他犯罪を犯したおかげで自分は世間に貢献できる人間になれた、被害者はそのためのやむをえない犠牲だった、被害者より今の自分のほうが世間の役にたっている、等と犯人に言わせるに等しい行為です。
少なくとも、私が被害者とその遺族であるとしたら、そう言われているとしか思えませんね。
またまともに反論できない完璧なコメント送ってしまって済みませんね。
>MBDさん
MBDさんへ
大穴空けといてどこが完璧なんだか。
更生というのは『世間に貢献できる人間にな』ることではなく、たんに社会的常識を有した普通の人間になることである。
犯罪(この場合は過失犯を含みませんね)を行う人間にはこの常識(人を騙しちゃいけませんとか、人の物を盗んじゃいけませんとか、人の命を取っちゃいけませんとか)が共有されていないとされる。ゆえに能動的に罪を犯すわけで、これは放置できない。
しかし同時に、権利侵害は絶対に否定される。なぜならまた、それも社会的常識に反するからだ。だからこそ、更生させることでその後の虞犯要素の排除に努めることになる。
それは現行法制上、一連の刑事手続きの中でのみ行われる。犯罪行為によっては行われない。
ちょっと簡単すぎる感じもするけれど、最低限こういうことは認識してくれないと。
まぁこのコメントも消されるから意味ないんでしょうけど。
こうしてサヨの印象操作を目の当たりにしている私としては、絶対にこの人達の言うことは信じられないわけです。
もちろん更正は無理でしょうね。
ただ、割に合わないから止める、我慢するというだけで。
私自身、前科こそ無い(ただ捕まってないからではなく、犯罪を実行したことが無い)ものの、主に窃盗の誘惑に駆られることが多いですし、一旦犯罪を犯した人間が我慢や諦めだけに留まらず、さらに更正となると事実上不可能と言えるでしょうね。
そもそもこの場合の更正ってなんでしょうか?
なにがどうなれば犯罪者は更正したことになるんでしょうか?
犯罪がいけないことだと知らないとか我慢できないとか、そんなの理由にならない。
もしそれを教えこむのが更正なら、それこそ犬猫並のしつけになりますが、そんなのはあなた達の大好きな人権侵害ですよ?
>MBDさん
更生
とりあえず日本はもう少し保護観察を行っている人たちに予算とか何かつけてあげてもいいのではないかとは思うのですが、ところで海外ではここらへんはどうなってるんでしょう?
教会の持ち出し?ボランティアが盛ん?やっぱり「民度」待ち?
教育ったって「社会通念から遊離した」道徳を詰め込んだって社会に出たらぺしゃんこに叩きつぶされるでしょうし、難しい問題ですよね。
ご紹介。
http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/532264.html
韓国は昨年政権交代があったわけですが、右派の大統領、与党から、死刑復活の意見が出ているようです。私は憂慮します。
でわ。
過去、現在
社会的犯罪が起きる事に第一責任は政権を握っている側にあります。犯罪が起きないための社会環境つくりの責任を果たせていないためです。人間誰でも生れ付き犯罪者ではありません。階級的な社会の仕組みが犯罪を生み出し、格差が深化すればするほど増加と凶悪化の可能性も出て来ます。死刑制度の廃止は健康な社会つくりのための重要な第一歩に過ぎません!
私の場合は死刑制度に関してちょっと別の観点から廃止をと考えています。
殺人などの重大犯罪は同然ですが刑事罰と合わせて民事上の責務もありますよね。
主に慰謝料の事ですがなぜかこの事が軽んじられているような気がします。
人を故意にしろ過失にしろ殺めてしまった場合、莫大な慰謝料を科せられますが聞いた話ですと大半は加害者が破産宣告をしたりして言葉は悪いですがチャラになってしまってるのが現状のようです。
殺人などの重大犯罪の場合、これを出来ないような決まりを作って一生を掛けて払い続けなければならない、というようにするのはどうでしょうか?
実際数億円の慰謝料を払い続けていくのは億万長者でもない限り、まさに生き地獄のような感じではないでしょうか?
少し幼稚な考えとは思いますが、このあたりから罪を犯した人の贖罪の意識、被害者遺族の感情などみんなが納得できるような突破口があるのでは?と思うのです。
死刑にしてしまえばそれで全て終わりになってしまうのですから。
それよりも裁判員制度です。司法参加はこれもまた先進国では普通なんですけど、市民が
死刑判決だすのはめずらしいらしいです。
「それでもぼくはやってない」じゃないけど、まちがいないと本当に納得できるのか、万が一誤審だったら?背負う重荷はとても大きいです。
中国も死刑廃止の方向へ向かってますよ
中国は死刑廃止を既に決定してますよ.模範囚から次々に無期懲役刑,重労働刑,期間限定刑などへ刑罰を軽くして行くということに中央法院が決めたそうです.中国も日本同様,囚人が増えすぎて,刑務所や刑務官が足りなくなっているという事情があるらしいですけれど.
# 中国の人権うんぬんを言うのなら,まず韓国や台湾やタイの現状から述べるべきですね.
裁判員制度も死刑問題も人類普遍の原理・原則へ立ち戻る必要がある。
このような人類普遍の原理・原則を裁判所という権力機関へ突きつける国民の民主主義が裁判所の刑事司法を民主化していく人類の力としての法である。
理詰め
しかし人間には感情がある。大事な人を殺されて「被害者は死んでいるからもう人権はないが、加害者はまだ生きているのだからその人権は尊重されなければならない」などと言われて平然と納得できるような奴には心が無い。
社会は理性によって運用されるべきであり、感情は排されるべきである、というならば、新自由主義者のように法律に触れない範囲で非人道的に金儲けをする人間のことを非難できるのだろうか?
死刑を廃止する、というその前に、被害者やその遺族を救済する方策を充実させるのが先ではないのか?
(何をもって救済とするのかも含めて)
それは絶対に違う
被害者や遺族の権利や救済は解ります。ただ、それと推定無罪の話は全く別でしょう。
推定無罪が有名無実化すれば民主主義国家ではありません。
推定無罪を理詰めで押し通すのは、
心が無いとか意味が分かりません。
もし私が自分の身内を殺されたら、犯人にはひと思いには死んで欲しくないですなあ。一生かけてでも自分の犯した罪の重さを理解してもらわないと。
と、そのために更生教育ってものがあるわけで(ま、本当に更生したのかどうかが問われる事にもなるわけで、その辺は催眠術でも心理探査でもなんでもやって、更生が本物かきっちり調べていただきたいですが)。
あと、時折「死刑になりたくて犯罪を犯した」という輩が出てきますが、そういう犯人の存在を死刑賛成派の人はどう捉えてるんでしょう?
死刑の密行主義は改められるべきではないですか?
死刑にも可視化を求めていくべきではないですか?
せめて刑場の一般公開だけでも実現してほしいです。
死刑の現場を自分の目で見る、それが正義の名の下に命を奪うと言う制度をもつ国の、犯罪者の命を絶つことで安心を享受しようとする国の住民としての責務だと私は思うのです。
廃止か存置かは、その次のステップだと思うのですよ。
汚れ役を他者に推しつけるのではなく
国民の9割近くが死刑制度を支持しているといわれる日本。裁判員制度も施行されて1年です。量刑として死刑が選択される時もいずれ訪れるでしょう。
直接に実際に「死刑」を知っている人がどれほどいるでしょうか。
自分自身が量刑選択し、死刑執行命令書に判を押し、死刑囚に「お迎えだよ」と言い、刑場へ連れ出し、死刑囚の首に縄をかけ、遺体となった死刑囚を降ろし、眼も舌も飛び出、糞尿にまみれた死刑囚の始末をする、その一つでも経験したうえで死刑賛成と言っている人がどれほどいるでしょうか。
刑場は壮絶な場ではありますが、しかし、加賀乙彦氏は「死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう」と言います。
死刑制度と裁判員制度との関連から、
「死刑とは何か~刑場の周縁から」http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/itami.htm
をご紹介します。
刑務所見学ツアーも必要
刑罰は死刑だけはありません。
懲役、禁固の現場を自分の目で見る、それが正義の名の下に人の自由を奪うと言う制度をもつ国の、犯罪者の自由を奪うことで安心を享受しようとする国の住民としての責務でしょう。
被害者遺族保護視点からの死刑廃止論
「殺す人間の世界は広がらない。必ず閉じていく。」
死刑について考える時、私がどうしても離れられないのが「光市母子殺害事件」である。
ニュースステーションで初めて見た本村洋氏は、殆ど殺人予告と受け取られかねない発言をしていた。世の中には感動した人も多かったようだが、私は「事件が人を鬼に変えてしまった」と、ただ悲しかった。
それから十数年。彼は考えを更に進めて、今は死刑を勝ち取る闘いを続けている。「死刑を勝ち取る闘い」とは、何をどう言い繕ったところで、「国に被告を殺させる」闘い、つまり「国の力で被告を殺す」ための闘いである。
初めて知った日から今日まで、本村氏を好きだと思った事は一度もない。
ただそれでも、ずっと変わらずに存在する、否定しきれない感情が私にはある。
・・・彼に、被告を殺させたくない。
被害者遺族は、殺してはいけない。
国は殺す/殺さないという選択を被害者遺族にさせてはならない。
本村氏のこころを、国の秩序を維持するための生贄にすることなど、あってはならないことなのだ。
本村氏が今の闘い方を自ら止めた時、私は、「もとむらさんよかったあ」ときっと思うんだろう。そのくらいには好きなのかも知れない。なかなか認めづらいものではあるけれど。
そう
我々はこれ以上テロリストにテロを起こさせたくはない。イスラエルの存在を認め、パレスティナを独立させる。国連が最初に定めた分割で妥協する。
光市事件と弁護士懲戒請求最高裁判決
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/e251a21f39f9bf7f5630d29db690837c
問題発言
法相のふざけた妄言
日本は、検察が妄想で犯人だと決めて起訴した事件に対する有罪率が99%、こんなことは絶対にありえません。この数字は裁判所が事件を公正に審査せず、いかに検察の起訴事実にのみ追従しているかをあらわしています。東電社員殺害事件でろくに審査することもなく、短期間のうちに当初から有罪ありきの姿勢で有罪判決を下した高裁、それを支持した最高裁の姿勢をみても明らかです。
そもそも「検察や裁判所が大がかりな国家の力で捜査し裁判に結びつけ死刑判決を下していた」多くの国で死刑が廃止されているのです。
にもかかわらず、死刑の執行を正当化するための滝実法相のふざけた妄言にはただただ閉口させられるばかりです。
国連総会の死刑執行の停止決議案採択を歓迎する
これで4回目の決議案の採択ですが、今回は今までで最多の111カ国が賛成し、回を重ねるごとに賛成国が増えています。
日本は案の定、決議案に反対した数少ない国となりました。
死刑制度の廃止は、世界の潮流というよりもはや常識になりつつあります。
非人道的で、残虐で野蛮、突極の人権侵害以外の何物でもない死刑制度は、21世紀においてもはや存在余地がない制度であることは明らかです。
破綻した根拠を持ち出す谷垣法相
死刑制度が必要だと思う根拠、理由を述べていますが、これらは死刑を正当化する理由にはならないという国際社会の結論がすでに出されています。死刑執行を正当化するために破綻済の根拠、理由を持ち出すのですからただただ閉口させられるばかりです。
死刑の廃止はもはや世界の常識となり、今年10月には国連人権理事会の定期審査で、多くの国から日本は死刑を見直すように勧告を受けています。
にもかかわらず、これに逆らうかのように死刑判決を乱発し、死刑執行の加速に固執していても、日本は「突極の人権侵害が行われている国」「残虐で野蛮な非人道的な国」だということを世界にさらけ出す以外の何物でもありません。
「国連が何だ!」「日本は日本だ!」などと叫んでいても、世界の視点にたつと「井の中の蛙」「独り善がり」以外の何物でもありません。
2013年9月12日の死刑執行に強く抗議する
死刑制度が突極の人権侵害以外の何物でもないことが明らかになり、国連総会は死刑廃止を決議、それを無視してベルトコンベア式大量処刑を続ける日本は国連の条約諸機関から度重なる勧告を受けています。
死刑の執行を行えば国際社会から日本への批判が起こるのは目に見えているため、五輪の開催に配慮して東京がオリンピックの開催都市に決定した直後に計画的に死刑を執行。
こういったきたない手法は、非民主的な独裁国家が用いる手法です。
そういうと戦前レジームの安部内閣も民主主義とは対極の価値観の内閣です。
まったくもって、「最低」!「卑劣」!ことをやってくれます。
訂正(脱字一字あり)
まったくもって、「最低」!「卑劣」!なことをやってくれます。
です。
「な」が抜けていました訂正します。
それにしても、安部首相の外遊が終わり、オリンピックの東京招致が確定し、諸外国から批判を受けにくい時期を恣意的に選んで死刑を執行、独裁国家が用いる手法そのものです。
これは国家による犯罪行為だ
強く抗議したいと思います。
今回死刑が執行された2名のうち1名は、死刑確定から1年4ヶ月しか経過しておらず再審を準備中。
もう1名は過去に5回も再審請求を行い、いずれも棄却、年明けには再審請求を予定。
再審請求されないうちに、恣意的に死刑の執行が行われたことが明白です。
ちなみに、日本では、再審請求をしてもまともに審査されず、最初から再審請求棄却ありきの不当行為が横行しています。
いずれも、死刑存置国であっても死刑の執行が見送られるべきケースでした。
これは、死刑執行というより、国家殺人であり、国家による犯罪行為そのものです。
さらに2人とも同じ境遇に育っても犯罪を犯さないと自信を持って言える人が果たしているのか?といわれる不遇な生い立ちの過去を持っています。
量刑を判断する際には、生育歴への判断は当然必要です。
「不遇な生い立ちでも立派になっている人がいる」などといった強者の論理、ふざけた暴論を主張し、結果だけで量刑を判断するようでは、それは近代司法とはいえず、奉行所のお裁き、リンチ以外の何ものでもありません。
谷垣法相による最低、卑劣な行為
強く抗議したいと思います。
法相を退く谷垣が内閣改造前に駆け込み的に死刑を執行、執行の責任を追及できない時期をあえて選んだ最低、卑劣な行為そのものです。
また、今回執行された2人は、いずれも再審準備中であり、再審の機会を恣意的に奪うといった国家による犯罪行為そのものです。
それにしても、わずか1年8ヶ月の間に11人の死刑を執行にしたのですから、例の鳩ポッポ法相と同じく、異常な血が流れている人間としかいいようがありません。
まあ、そういった人間だから死刑執行に血道を挙げる日本軍国主義者「安部晋三」が法相に選んだのでしょう。
ともかく死刑廃止が世界の常識となる中、非人道的で残忍で野蛮な死刑執行を加速させる日本に対して、国連、EUをはじめとする民主主義国、各人権団体は、批判の声を挙げ続けなければいけません。
「死刑廃止を視野に入れた死刑執行の停止」を求める決議案の採択を歓迎する
今回で5回目の採択ですが、過去最高である117カ国の賛成によって採択、毎回賛成国が増えています。
世界の進歩、人類の進歩によって導き出されたこの採択を歓迎したいと思います。
誠に残念ながら、日本はといえば案の定、決議案に反対。
マスコミはといえば、こういった重大なニュースを全く報じません。
世界の進歩に逆行し、「死刑大国」「監獄国家」化を推進する政府。
それを支えるマスコミといった構図が浮かび上がります。
官民一体となって国際社会に日本の恥をさらけ出すこういった行為には、ただただ閉口させられるばかりです。
米ネブラスカ州の死刑廃止を歓迎する
保守反動的な州知事の妨害があったにもかかわらず、見事にこれを覆した州議会の英断に敬意を表すると共に、ネブラスカ州が死刑廃止州の仲間入りを果たしたことを心から歓迎したいと思います。
国家犯罪(国の行う人殺し)、突極の人権侵害でしかない死刑制度。
先進国で存置している国は、日本とアメリカの一部の州だけになりました
死刑を存置する他の州もネブラスカ州にならい、死刑制度廃止の英断を!
そしてアメリカも死刑廃止国の仲間入りを!
2015年6月25日の死刑執行に強く抗議する
死刑が執行された神田司さんは再審を準備中、しかしその再審準備を妨害するといった司法の犯罪が行われました。
また、一審の審理しか受けておらず、控訴取り下げも事情を考えると無効そのものです。
上川法相が語っているように「裁判所の十分に審理を経た上で死刑が確定」などお世辞にも言えません。
死刑廃止がもはや世界の常識となり、国際社会が死刑廃止を求める中、それをわざわらうかのように行われた今回の死刑執行に強く抗議します。
6回目の国連総会の死刑執行の停止決議案採択を歓迎する
2007年に1回目の採決が行われて以来、今回で6回目の採択です。
世界の進歩、人類の進歩によって導き出されたこの採択を歓迎したいと思います。
1945年に国連が創立された当時は加盟国51のうち、廃止国はわずか8カ国でした。
しかし、その後多くの国で廃止され、現在は193加盟国のうち2015年には全体の88%にあたる169カ国が死刑の執行は行っていません。
それは人類が死刑制度が誤った制度であることに気が付いたから、世界は死刑廃止へと向かうのです。
しかし、誠に残念ながら、日本はといえば相も変わらず決議案に反対。
マスコミはといえば、相も変わらずこういった重大なニュースを全く報じません。
世界の進歩に逆行し、「死刑大国」「監獄国家」化を推進する政府。
それを支えるマスコミ。
官民一体となって国際社会に日本の恥をさらけ出しているということをいいかげん自覚すべきです。
2017年7月13日の死刑執行に強く抗議する
心より歓迎したいと思います。
世界が最も残虐で非人道的な刑罰である死刑廃止へと向かう中で、日本では7月13日、西川正勝さんと住田紘一さんに死刑の執行が行われました。
8月上旬に内閣改造が予定されているこの時期の執行は、執行の責任追及を逃れるための例によって例のごとく駆け込み執行そのものであり、強く抗議します。
西川正勝さんは再審請求中。
住田紘一さんは1審の裁判しか受けていません。
今回の死刑執行は公正な裁判を受ける権利を確保するという観点が全く見られず、人命を軽視する安倍政権の姿勢そのものです。
安倍政権下での処刑はこれで29名となり、いかに人命を顧みない冷酷な政権であるかを示しています。
僕の父は母を殺した
事実を受け入れられない大山寛人さんは非行に走り,自殺未遂を繰り返しました。
父の死刑判決をきっかけに3年半ぶりに父子は面会し,親子のきずなを取戻しました。
しかし,2011年6月7日に最高裁は死刑判決を下し,死刑が確定しました。
「被害者遺族」と言っても,置かれた立場や境遇,状況は一人ひとり違い,加害者に対する思いも同じであるとは限りません。
大山寛人さんの父を死刑にすることが,大山さんにとってよいことと言えるでしょうか。
大山寛人さんが父の死刑を願っているとは思えません。
平成28年犯罪白書によると,殺人事件における被害者と被疑者の関係では,親族間が52.4%とトップを占めています。
とてもつらいことですが,死刑囚が死刑になっても,被害者遺族が亡くなった人と同じ時間を過ごすことはできません。
死刑囚が死刑になったのに,何ひとつ変わらなかったと言っている遺族もいます。
死刑囚が死刑になったからと言って,亡くなった娘が喜んでくれているとは思えない,と言っている遺族もいます。
1794年7月17日,フランス革命の嵐がまだおさまらないときに,コンピエーニュで16人のカルメル会修道女が断頭台で命を落としました。政府から棄教を迫られたのですが,これを断り殉教の道を歩みました。彼女たちは,神にフランス国家の罪に対する贖いとして命を捧げました。
プーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」では,修道女全員が「サルヴェ・レジーナ」を歌うわけですが,一人ひとり断頭台に上るため,歌声はだんだん小さくなり,最後は歌声が絶えてしまいます。
シャリーンというギロチンの刃が滑り落ちる音,ドサッと切断されて頭部が台に落ちて跳ね返る音,これらがオペラに盛り込まれています。
死刑を賛成する日本人の8割に人たちに,ぜひこのオペラを味わってほしいものです。それでも死刑に賛成しますか?
復讐するは我にあり
グアテマラは法律上または事実上死刑を廃止した国としては142番目となります。ただし,軍法においては依然として死刑が残っています。
2017年12月17日まで上野の森美術館で開催されている「怖い絵展」が大人気です。そのなかで特に注目を集めているのは,ポール・ドラロッシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」だそうです。
ジェーン・グレイはヘンリー8世の妹の孫にあたり,ギリシャ語はもちろん,ラテン語でも聖書を読むことができた聡明な女性でした。権力闘争に巻き込まれイングランド初の女王に就任しますが,反逆罪の汚名を着せられ,9日間で廃位され,7ヶ月後にはブラッディ・メアリ(メアリ1世:女子供を含む300人以上のプロテスタント信者を処刑)から,プロテスタントからカトリックへの改宗を迫られますが,これを拒否したため斬首されました。享年は16歳でした。
絵では,真っ白なドレスを着て目隠しをされたジェーン・グレイが自分の首を載せる処刑台を手さぐりしている,という悲痛なシーンが描かれています。日本人の役者による演劇「9Days Queen」もあり,ジェーン・グレイを堀北真希さんが演じています。
さきごろ,シャロン・テートさん事件の首謀者だったチャールズ・マンソンが老衰のため83歳で獄中で死亡しました。
「羊たちの沈黙」のモデルとなったFBI心理分析官のロバート・k・ケスラー氏は次のように言っています。
「フロリダ州はテッド・バンディを処刑するのに7,800万ドルを費やしたが,この金を使ってバンディやケンパー,ゲイシー,バーコウィッツ,ダーマーのような反社会的人間を調査し研究するための法刑罰施設を設立したほうが有意義だったのではないか。死刑は凶悪犯罪を抑止するものではないという点で,犯罪学者の意見は一致している。それは単に被害者の遺族や一般社会の復讐心を満足させるだけだ。」
連続殺人を取り扱ったレスラー氏の発言だけに重みがあります。
復讐という感情によってしか存在意義を説明できない(ブラッディ・メアリにとっては,言うことを聞かない者を物理的に排除,見せしめ)制度というものは,はたして文明国の到達点と言えるでしょうか。
愛する者よ,自ら復讐すな。ただ神の怒りに任せまつれ。録して,「主いひ給ふ,復讐するは我にあり,我これに報いん」とあり。(ローマ人への手紙第12章第19節)
これは国家殺人だ!
強く抗議します。
今回は2人とも再審請求中。
再審請求中の執行は、たとえ死刑存置国であっても許されてはならないのは明らかです。
まして、検察が起訴した事件の有罪率が99%の冤罪大国日本です。
さらに関光彦さんは、犯行当時19歳の少年。
まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への執行は少年法の精神にも接触し、北京ルールズにも違反しています。
上川法相が言うように「慎重な検討を加えて執行した」
などとはお世辞にも言えません。
今回の執行は年末の帳尻合わせの駆け込み執行であり、冤罪、部分冤罪の可能性が大の再審請求中であっても、事件当時精神的に未熟だった少年であっても手当たり次第に執行するといったことを内外にアピールする国家殺人そのものです。
死刑廃止が世界の常識となる中で、あくまでも死刑執行に固執続ける日本。
国際社会に生きる権利を顧みない国だということをされけ出していることを心すべきです。
これは国家殺人だ!
強く抗議します。
今回は2人とも再審請求中。
再審請求中の執行は、たとえ死刑存置国であっても許されてはならないのは明らかです。
まして、検察が起訴した事件の有罪率が99%の冤罪大国日本です。
さらに関光彦さんは、犯行当時19歳の少年。
まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への執行は少年法の精神にも接触し、北京ルールズにも違反しています。
上川法相が言うように「慎重な検討を加えて執行した」
などとはお世辞にも言えません。
今回の執行は年末の帳尻合わせの駆け込み執行であり、冤罪、部分冤罪の可能性が大の再審請求中であっても、事件当時精神的に未熟だった少年であっても手当たり次第に執行するといったことを内外にアピールする国家殺人そのものです。
死刑廃止が世界の常識となる中で、あくまでも死刑執行に固執続ける日本。
国際社会に生きる権利を顧みない国だということをされけ出していることを心すべきです。
ベアトリーチェ・チェンチ
10代の娘と性行為をしたなどとして,監護者性交等罪と監護者わいせつ罪に問われた上越地方に住む被告の男の初公判が10日,地裁高田支部であり,検察側は懲役6年を求刑した。判決は2月7日。
この記事を読んで私はベアトリーチェ・チェンチを思い出しました。
ベアトリーチェは名門貴族のチェンチ家に生まれました。寄宿舎生活を終えて家に帰ったとろ,実父フランチェスコに乱暴され,処女を奪われました。15歳ころのことです。その後も長い間,父から性的虐待を受けました。父は他の家族にも暴力をふるいました。
父は問題を起こして逮捕されても。有力貴族であることから簡単に釈放されました。
ベアトリーチェは虐待を受けていることを警察に告発しましたが,警察は動いてくれませんでした。
父はベアチーチェが警察に告発したことを知りました。
切羽つまったベアトリーチェは家族とともに父の殺害を企てます。
麻薬を飲ませ,家族全員が金槌で殴り,ベランダから投げ落として父を殺害しました。
ベアトリーチェの恋人は拷問を受けても口を割らず,そのまま亡くなりました。
1599年9月11日,サンタンジェロ広場でチェンチ一族が処刑されました。一家で凶暴暴虐で淫蕩な父を殺したとして,兄のジャコモが四つ裂きで処刑された後,継母ルクレツィア,ベアトリーチェの順番に斬首が行われました。
ベアトリーチェはたいへんに美しい人で,父がどれほどひどい人間であるか広く知られていたので,ローマ中の人々はみな同情しました。
ところが当時のローマ教皇はチェンチ家の財産を没収できるということで,この処刑には積極的に賛成しました。
その結果,処刑が行われたのです。
ベアトリーチェの享年は22歳でした。
「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」という絵があります。
ゲーテが「神のごとき天才」と評したグイド・レーニの作と言われてきましたが,最近では他の画家が描いたのではないかと言われています。
ターバンを頭に巻いて,処刑前の悲しそうな微笑を見せて振り向いた若い女性の肖像画です。
ターバンは斧を振り下ろすときに髪の毛で滑らないようにするためのものです。
フェルメールの「真珠の首飾りの少女(青いターバンの少女)」は,この絵からヒントを得たと言われています。ターバンを巻いて,ちょっと振り向いたポーズはまったく一緒です。
カラヴァッジョもベアトリーチェをモデルにした絵を描きたかったようですが,それはかなわず,処刑の現場を見て,「ホロフェルネスを斬首するユーディット」を描いたのではないかと言われています。
人を殺害するのはよくないことです。でもベアトリーチェには他にどのような選択肢があったでしょうか。
人を殺害した者は,その命を代償として差し出さなくてはいけないという人間界の掟はどうにも無慈悲です。
やっぱり死刑はない方がいい。
ベアトリーチェの処刑を考えると,つくずくそう思います。
オウム事件の裁判が終結するやいなや
裁判が終わるやいなや、マスコミは13人の死刑執行に焦点が移った。
死刑執行の順番は?
などと人命をもてあそび、突極の人権侵害である死刑執行を煽っています。
再審請求中の人もいるというのに。
今や死刑制度は誤った過去の遺物となり、死刑廃止はもはや世界の常識となっています。
数少ない死刑存置国である日本は、国連の条約諸機関やEU、各種人権団体から死刑制度を廃止するように度重なる勧告を受けています。
本来ならば死刑執行の停止、そして廃止を呼びかけるのが健全なマスコミの姿ではないでしょうか。
にもかかわらず、官民一体となって「死刑大国」「監獄国家」化を推進する姿にはただただ閉口させられるばかりです。
※2017/12/24(22:15)のコメント、一番下の段に誤字が一字ありました。
「されけ出している」ではなく「さらけ出している」の誤りです。
訂正します。
2017年12月19日の死刑執行について法務省が一部開示した文書は、執行理由等多くは黒塗りにされていたそうです。
再審請求中の不当な執行等々、やましいことが多々あるから黒塗りにしたのは明らかです。
袴田巌さんに再審決定を
逮捕から50年,捏造されたと思える証拠に基ずく不当な裁判開始から50年が経過しました。袴田さんは高齢の上,長年の拘禁生活で精神の病を患っています。
袴田さんは,1968年に死刑判決を受けて2014年3月に釈放されるまで,46年間独居房に入れられていました。これは,死刑囚としては世界で最も長い投獄です。弁護士の立ち会いのないまま,20日間取り調べを受け,自白したとっされました。しかし,袴田さんは公判で,20日間の警察での取り調べ中に暴行や脅迫を受け,自白を強いられたとして,自白を撤回しました。
今回の東京高等裁判所の決定には,世界も憂慮しました。日本は何という国なのだろう,と。
弁護団が特別抗告をしたならば,ただちに審理を開始すべきです。
苦悩する裁判官
冤罪だとすでに分かっているのに,袴田さんを拘置所から出してあげられないことが何よりも辛かったです。わたしの自宅には「死ね」などの言葉を書きなぐったファクスが届いたこともあります。2014年3月,再審請求が認められ,裁判官の「拘置をこれ以上継続することは,耐え難いほど正義に反する状況と言わざるを得ない。一刻も袴田の身柄を解放すべきである」の言葉と共に,袴田さんが拘置所から出てきたときは,本当に嬉しかったです。「巌さん,生きていてくれてありがとう」と心から思いました。
キリスト教界からの反応としては,署名活動を一緒にしてくださったり,祈りで支えてくださったり熱心に応援してくれる人もいらっしゃいました。一方で,誹謗中傷もありました。「おかみが間違ったことをするわけがないでしょう」と言って,署名に協力してくださらない方にお会いしたときは,本当に辛かったです。「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ人への手紙12章15節)にあるように,弱き者に寄り添うのがクリスチャンではないでしょうか。
静岡地裁で裁判を担当した熊本典道元裁判官は,一審を担当した3人の裁判官のうちの1人でした。3人のうち2人は袴田さんを有罪にしましたが,熊本さんだけは当初から無罪の心証を持っていました,心にもない死刑判決を書いたことを悔やみ,判決から7カ月後には裁判官をおやめになったそうです。その後,弁護士になられたようですが,「わたしは,一人の人間を殺したんだ」という良心の呵責に耐えきれず,酒を浴びるように飲み,すさんだ生活を送ったこともありました。自死を考えたこともあったと聞いています。2007年に,熊本さんは当初から無罪の心証をもっていたことを告白しました。
「少しでも袴田さんの気持ちに近ずきたい」と,療養中のご自宅でジュード・ピリスップレ神父から洗礼を受けられました。受洗後に,「袴田さんの気持ちに近ずけましたか?」と尋ねると,涙を流して,「はい」と大きく頷いたそうです。袴田さんを通して,一人の人が救われた瞬間でした。熊本さんは現在,入院しながらの闘病生活を送っていらっしゃいます。
以上,KriShinからの引用おわり。
袴田巌さんには一刻も早い再審が開始されるべきです。
冤罪で処刑してしまえば取りかえしがつかない死刑は,廃止すべきです。
心にもない死刑判決を書いて自死さえ考えるほど苦悩した熊本元裁判官の思いを知るべきです。
和歌山カレー事件20年
この事件で容疑者として逮捕された林真須美容疑者。
彼女には動機はなく、自白はなく、物証もありません。
本来なら無罪になって当然のケースです。
にもかかわらず死刑判決が確定。
再審請求も棄却。
「恐ろしい!」の一語です。
(日本は検察が起訴した事件の有罪率が99%の冤罪大国です)
本来なら無罪を求めて国民が声をあげなくてはいけないはずですが、何と!ネット上では「殺せ!殺せ!」の大合唱が飛び交っています。
「狂気の沙汰」とはこのことです。
こういった世相の国だから、日本は誤った過去の遺物となった死刑制度を廃止できないばかりか、非人道的な死刑大国への道を驀進するのかも知れません。
教皇,「カテキズム」中の死刑に関する項目改訂を承認
2267項の改訂版の暫定訳は,以下の通りです。
2267 合法的な行政機関が,公正な裁判に従い死刑を用いることは長年,特 定の重大犯罪に対する適切な対応であり,たとえ極端であっても,共通善を守 るための手段として受け入れられると考えられてきました。しかしながら,今 日,たとえ非常に重大な罪を犯したあとであっても人間の尊厳は失われないと いう意識がますます高まっています。加えて,国家が科す刑罰の意義に関し て,新たな理解が現れてきています。最後に,より効果的な拘留システムが発 展してきており,それによって四民の安全を適正に確保することができます が,同時に,犯罪者から罪を償う可能性を決定的に奪うことはありません。
これらの結果として教会は,福音の光に照らして次のように教えます。「死 刑は認められません。それは人間の不可侵性と尊厳への攻撃だからです」。さ らに教会は全世界での死刑廃止のために決然と働きます。
また,同項目のこれまでの文章は次の通りです。
2267 教会の伝統的な教えによれば,違反者の身元や責任が完全に確認され た場合,それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道で あるならば,死刑を科すことも排除されていません。
攻撃する者に対して血を流さずにすむ手段で人命を守ることができ,また公 共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば,公権の発動はそのよう な手段に限定されるべきです。そのような手段は,公共善の具体的な状況に いっそうよく合致するからであり,人間の尊厳にいっそうかなうからです。
実際,今日では,国家が犯罪を効果的に防ぎ,償いの機会を罪びとから決定 的に取り上げることなしに罪びとがそれ以上罪を犯さないようにすることが可 能になってきたので,死刑執行が絶対に必要とされる事例は,「皆無ではない にしても非常にまれなことになりました」。
以上,カトリック中央協議会のHPからの引用終わり。
このように見ていくと,カトリック教会は,死刑は人間の不可侵性と尊厳へ の攻撃であり,けっして両立しないものとして,死刑廃止に向けて,より一歩 踏み込んだ形で全世界に呼びかけていることが分かります。
カトリック教会の教理問答改定を歓迎する
全世界での死刑制度廃止に向けて、教会が「確固たる態度をとる」と表明しています。
ローマ法王庁、ローマ法王フランシスコの英断に敬意を表すると共に、今回の英断を大いに歓迎したいと思います。
マレーシア政府が死刑に関わる歴史的な方針転換を発表
同国は,この7月,死刑の執行を停止すると宣言していました。
全面死刑廃止法案の審議が10月15日から始まるとのことです。
麻薬の持ち込みや所持だけで死刑を科してきたマレーシアが死刑廃止に動きだしたというのは意外でした。「あのマレーシアが」という気持ちです。
10月10日現在,死刑制度を廃止した国は106カ国で,マレーシアを含めると
107カ国になります。
ベアトリーチェ・チェンチ(1577~1599)の悲劇を描いた,スタンダールの「チェンチ一族」という作品があります。
これを下敷きにして,久生十蘭(ひさお じゅうらん,「鈴木主水」で直木賞を受賞)は時代を後白河法皇時代の平安時代に物語を設定します。
小説の一部を引用します。
「後白川法皇の院政中,京の賀茂がわらでめずらしい死刑が行われた。
大宝律には,笞,杖,徒,流,死と五刑が規定されているが,聖武天皇以来,代々の天皇はみな熱心な仏教の帰依者で,仏法尊信のあまり刑をすこしでも軽くしてやることをこのうえもない功徳だとして,とりわけ死んだものは二度と生かされぬというご趣意から,大赦とか,常赦とか,さまざまな恩典をつくって特赦を行うのが例であった。・・・・・・・・また強盗が人を殺して物を奪うと,偸
盗の事実だけを対象にして刑を科し,殺したほうの罪は主罪に包摂させてしまう。法文は法文として,この時代には実際において死刑というものは存在しなかったのである。」
810年の薬子の変で藤原仲成が処刑された後,1156年の保元の乱で源為義が処刑されるまでのおよそ350年間日本には公的には死刑が執行されなかったとされています。
その理由としては,
1 死が穢れていると思われたこと。
2 仏教思想の影響(特に天皇の仏教への帰依)
3 怨霊思想への恐怖
が一般的には説明されているようです。
「無月物語」では中納言の藤原泰文を殺害教唆したとして,後妻の公子(きんこ・35歳)と末娘の花世(はなよ・16歳)が処刑されます。
近代でも,1990年から1992年まで日本では死刑が執行されない時期がありました。
日本も昔に帰って死刑の執行を停止し,廃止すべきときが来ていると思います。
死刑囚の遺書・遺言
「フランチェスコ・チェンチをなつかしく思い出している,わたくし,ベアトリーチェ・チェンチは肉体,感性,知性ともに健康な状態にありながら,死ななければならないことを考慮して,わたくしの死後,混乱の起こることがないよう,下記の通り,この最後の遺言状を作成し,自ら署名いたします。心の底から,敬虔な思いのたけをこめて,栄ある聖母に,神に,聖フランチェスコに,天界の法廷全体に,この遺言状を委ねさせていただきます。そして願わくは,わたくしのこの身体がサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬されんことを。埋葬していただくからには硬貨で百スクードを教会に残します。それにて墓碑を作っていただき,残額を葬儀と寄進にあてるという条件で・・・・。この教会には別に硬貨で三千スクードを残しますが,これは教会の立っている山が崩れないよう城壁をめぐらすとか,そのほか,必要なことに使っていただきます。同時に今後,永久に毎日,サンタ礼拝堂にてわたくしの魂のためにミサをあげていただかなければなりません。この三千スクードのお金は,わたくしの聴罪司祭であり,目下はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会においでになるアンドレア・デ・ローマ修道士様の同意なしには使っていただきたくございません」
(ベアトリーチェ・チェンチ)
また聖フランチェスコの日に,挙式を控えた独身女性八千人に八千スクードの金を分けるよう義務ずけています。これは彼女自身,家庭を営んで人並みに生きることが許されなかったことに由来する優しい衝動から来ていると理解されています。
なおスタンダールは,遺書というよりも質の高い,貴重な価値のある人間記録である,と述べています。
処刑後,憐み深い婦人数人が,斬られた姫の首に白い花の冠をかぶせました。
チェンチ一族の凄惨な処刑を目にした修道女になる日が近い18歳の娘は,着ている服を破り,身体中をかきむしって逃げ出しました。やっとのことで家に引きこもると,肉切り用の斧を右手に持ち,左手を切断し,出血多量のために亡くなりました。
「やがて来む終の日思ひ限り無き生命を思ひ微笑みて居ぬ」
(管野スガ)
「ワタシ,ニホンゴワカリマセン。アナタタチ,イマカラワタシニナニスルノ」
(陳徳通)
「池田晶子さんのところに行けるのは,この上ない幸せです」
(陸田真志)
「私は77歳ですよ。それでもあなた方は執行するんですか・・・」
(秋山芳光)
教誨師について
佐向大監督によると,大杉さんが演じるならば袈裟を着たお坊さんより聖書を手にした牧師の方が似合っていると思い,キリスト教の教誨師という設定にしたそうです。
映画を鑑賞した宮城県の川上直哉さんによると,牧師のダメなところが非常によく描かれていて驚いた,このまま成長できないで終わってしまうのかと思った,大杉さんが演じる教誨師・佐伯が成長していく話であるとのことでした。
最大限やれることとは,と佐向監督に聞かれて,川上さんは「祝福することですね。特に本人には,『あなたの人生はこれで良かったんだ』と伝えるんです。『あなたがしたことの責任は神様が何とかしてくれる。あなたの人生には意味があったし,死んでも一人ぼっちにはならない』と,答えました。
ベアトリーチェ・チェンチの時代にも,黒い頭巾を被った異様な風体のミゼリコルディア信心会の会員が死刑囚を慰め,処刑場まで先導しました。
免田栄さんによると,「あそこに入ってくる教誨師というのはほとんど,安心して死を受け入れるための説教に来るんですよ」とのことです。
冤罪の人にとってみれば,教誨師はむしろ憎むべき存在なのかも知れないと対談者が話したところ,免田さんは再審の存在を教えてくれたのはカナダの神父だったが,外国の方だからそういうことを言えたんでしょう,日本の牧師さんやお寺さんではとても無理ですよ。日本の宗教はキリスト教においてさえ,因果応報説をとりますからね,と答えました。
免田さんの第6次再審請求が認められて裁判が開かれる2か月くらい前に,福岡の有名な教誨師が「免田さん,あなた再審は諦めてくれ。世の中はすべて因果応報なんだ。あなたは現世で死刑になって生まれる運命を背負うて生まれてきたのだから,素直にそれを負うていかなければ,あなたの兄弟,友人,知人すべてが救われなくなる。潔く諦めて刑に服してくれ」と言いました。
免田さんは頭にきたので,次の週に教誨師が来た時に聞いたそうです。「先生は私にこういうことを言われたけれども,では例えば先生が今日交通事故に遭われたとする,そしたら運命だと思って諦めて死にますか」と。そしたら「いや,病院に行きますよ」と彼は答えた。「それじゃ私に言っていることと違うじゃないですか」と言ったら,首をかしげて「そうですかねぇ」ときた。自分が他人に説いていることが自分のところに帰ってくると,とたんに分からなくなる,それが日本の坊さんですよ!,と免田さんが憤って話しました。
教誨師というものを通じて死刑を考えてみることもよいのではないかと思います。
7回目の国連総会の死刑執行の停止決議案採択を歓迎する
2007年に1回目の採決が行われて以来、今回で7回目の採択で、今までで最多の121カ国の賛成で採択されました。
世界の進歩、人類の進歩によって導き出されたこの採択を心より歓迎したいと思います。
しかし、誠に残念ながら、日本はといえば相も変わらず決議案に反対。
国際社会でますます孤立の度合いを深めることになりました。
マスコミはといえば、相も変わらずこういった重大なニュースを全く報じません。
今年15名もの大量死刑執行を行い、世界の進歩に逆行し、「死刑大国」「監獄国家」の道を驀進する政府。
それに拍手喝さいを送るマスコミ。
官民一体となって日本が突極の人権侵害が行われている非人道的な国であるということを国際社会にさらけ出しています。
映画「教誨師」を見てきました
大杉漣さん扮する佐伯牧師が手こずる宮島死刑囚という青年がいます。17人を殺害し,反省することなどまったくなく,自分の行為を正当化します。神様が生命を作ったと言うなら,動物が他の動物を殺すののはどうなのだ,人間は殺しあっているじゃないか,死刑はおかしいじゃないか,と頭の回転のよい宮島死刑囚は佐伯牧師をてこずらせます。
佐伯牧師は「人間はみな罪人(つみびと)なのです」と言うのですが,こういった言葉を第三者に言うこと,そのセリフに少し疑問を感じました。生まれたばかりの赤ちゃんにも罪があるのか,なぜアダムの原罪を今生まれたばかりの赤ちゃんが背負わなければいけないのかと思うからです。
フェリス女学院の学院長を務めた岡野国際基督教大学名誉教授の文章を一部紹介します。
キリスト教で言う「罪」とは,犯罪を犯すことではありません。ここで言う「罪」とは,神のほうを向いていないこと,神に背を向けることを意味するのです。日本語の聖書で「罪」と訳されている言葉は,実は言語では二十以上の種類がありますが,その中で一番重要なものはヘブライ語(旧約聖書の原語)で「ハッタース」,ギリシア語(新約聖書の原語)では「ハマルティア」と表現される「罪」です。これらの語には「的外れ」という意味があり,つまり「罪」とは私たちが的外れな方向を向いていることである,と定義ずけられているわけです。
キリスト教で言う「罪」とは,犯罪を犯すことでも,悪行を重ねることでもありません。罪とは「的外れ」な状態,つまり本来は向いているべき神のほうを向いていないこと,神に背を向けている状態を示す言葉なのです。・・・ですから,「原罪」も,人間を「生まれながらに悪だ」と位置ずけている言葉ではなく,「人間は生まれながらに神に背を向けてしまう存在だ」と位置ずけている言葉なのです。
本来は,①イエス・キリストという存在に出会う。②イエスを通して神を知り,自分が生かされ,愛されている存在だということを知る。そして初めて,③これまでの自分が神のほうを向いていなかった,すなわち罪の状態であったことを知る・・・という順序でようやく罪を理解できるのではないでしょうか。
ですから,そもそもイエスという存在を知らない人に対して,「あなたは罪人だ」「その罪を悔い改めなさい」などと言うことはまったく意味のないことだと思います。罪は神と自分との関係性において生じるもの。二人称で使われる言葉であり,第三者が指摘するような性質のものではありません(岡野昌雄「信じることをためらっている人へ―キリスト教「超」入門)。
宮島死刑囚は佐伯牧師と対談しているときは傲慢で恐れを知らないのですが,死刑執行を告げられると,汗をびっしょりかき,恐怖におびえて椅子から立ち上がることができなくなりました。ようやく椅子から立ち上がった宮島死刑囚を刑務官が処刑場に連行する場面が,映画で一番緊張感があるシーンでハイライトと言っていいでしょう。
金子文子が友人である新山初代と交わす死への恐怖に関する会話が印象的です。金子文子「何が私をこうさせたか」から,一部引用します。
「私は肺病です。だから死については,かなり深く考えたつもりです。で,私は思うんです。人が死を怖れるのは死そのものを怖れるのではなく,死に移る瞬間の苦痛を怖れるのではなかろうかと。なぜって,人は睡眠を怖れないじゃありませんか。睡眠は意識を喪失する点において,これもやはり一時的な死であると言ってもいいのに・・・・」(新山初代)
「私はそうは思いませんね。私は私の体験からこう断言することができるんです。人が死を怖れるのは,自分が永遠にこの地上から去るということが悲しいんです。言葉をかえて言えば,人は地上のあらゆる現象を平素はなんとも意識しないかも知れないが,実は自分そのものの内容なので,その内容を失っていまうことが悲しいんです,睡眠は決してその内容を失ってはいません。睡眠はただ忘れているだけのことです」(金子文子)
二人の意見,どのように思われますか?
死刑囚の最後の言葉
ブルーノは牢獄で死刑の宣告を読み上げられたとき,裁判官たちに指を突きつけて叫んだそうです。
「諸君が余にこの刑を科して覚えている恐怖は,余がこの刑を受けるときに覚える恐怖よりもきっと大きいはずである」
米国カリフォルニア州知事が死刑執行を一時停止
現在,世界で142カ国が死刑を法律上または実質的に廃止しています。
2018年12月5日,日本の超党派の国会議員が,死刑について国民的議論を促すために,「日本の死刑制度の今後を考える議員の会」を立ち上げました。休眠状態にあった「死刑廃止を推進する議員連盟」が新たに名称を変えて死刑存続派も含めて死刑制度のあり方を広く議論しようというもので,約50人の議員が参加しています。
死刑制度を1981年に廃止したフランスに学ぶことがあるとしたら,どのような点かとの質問に,2018年10月30日にローラン・ピック駐日大使はこう答えたそうです。
「それは,政治主導による国民の意識変革の重要性です。1970年代,フランスでも国民の間では死刑存置派が8割以上でした。それを徐々に変えていったのは,死刑制度反対派市民の活動だけでなく,死刑反対派の政治家がその信念を公に唱え始め,賛同者が増えていく中で,国民全体の意識も変わっていったのだということです」
死刑反対の政治家を育てることが今一番必要なことではないか,と思います。
2018年の死刑の状況
2018年は死刑大国であるイランをはじめ,これまで執行数の多かったイラク,パキスタンなどでの死刑執行が大幅に減少したことから,死刑執行数が31%減少。少なくとも過去10年間で最低を記録しました。
ブルキナファソとアメリカ合衆国ワシントン州は死刑を廃止,ガンビアとマレーシアは死刑の執行停止を宣言しました。
タイは死刑を再開しましたが,世界的な潮流は廃止に向かっていると言えそうです。
2018年末時点で,106カ国が死刑という刑罰を持たず,事実上の廃止を含めると142カ国が死刑を廃止しています。
日本の昨年の死刑執行数は15件と,2008年以来最多を記録しました,
死刑判決を受けている116人のうち109人の死刑判決が確定しており,いつ執行がなされてもおかしくない状況になっています。
赤道ギニアが死刑廃止へ
カーポベルデで行われたポルトガル語諸国共同体の会議において,2019年4月
15日,赤道ギニアのデオドロ・オビアン・ンゲマ大統領は死刑廃止に向けた法案を議会に提出する考えを表明しました。
赤道ギニアが死刑を廃止すれば,死刑廃止国は107カ国になります。
赤道ギニアが最後に死刑を執行したのは2014年1月で,殺人罪で9人を処刑しました。しかし,その数日後には死刑の一時執行停止措置を取り,それ以来執行がなされていないという背景があります。
英国議員死刑廃止を語る
私は,1カ国でも死刑のある司法制度はあってはいけないという信念を持って,世界中で死刑廃止に取り組んでいます。これは政治的信念だけではありません。個人的な想いでもあります。
・・・・・
日本では日弁連が死刑廃止を目標に掲げて,懸命に取り組んでいますが,それでも死刑廃止には至らない。議員だけでも無理,弁護士だけでも無理なんです。議論を進めるには,みんなが必要。死刑のような問題は,なるべく話さない方が楽な問題,変化を起こさなければ動かない問題です。変化を起こすには自分たちが動いて,議論を巻き起こすしかありません。そうすれば,議員の中にも,法曹界の中にも,耳を傾ける人が出てきます。
大切なのは,変化は起こせるんだ,変化は可能だと思うことです。
・・・・・・・
日本の死刑の特徴は,当日の朝になるまで執行が知らされないことです。まず,ここを変えてはどうでしょう。小さなことかもしれませんんが,残酷さを取り除く。そして,変化は必要なんだ,可能なんだという認識を,人びとに持たせるんです。少しずつ,一歩ずつ,たしかに進んでいけばいい。
また,世論が変わるのを待っていてはいけません。出て行って。世論を変えるんです。
議員は慎重にならざるを得ません。自分が代表している国民から,あまりかけ離れたことは言えませんから。だからこそ,議員に「変化を求めているんだ」ということを伝えなければ。議員が変化を起こすために必要な勇気を与えるのはみなさんなのです。
以上で引用終わり。
イギリスは窃盗罪を犯した子どもを多数処刑してきた過酷な歴史をもっています。しかし,死刑廃止を実現しました。
カーマイケル議員が言う,「世論が変わるのを待っていてはいけません。出て行って,世論を変えるんです」という内容はとても重要だと思います。
死刑廃止を考える集いなどに参加し,学習し,何か小さなことからでも変えて
いけば,やがて日本でも死刑廃止を実現できるかも知れません。
ある死刑囚の最後の手紙
この死刑囚は,小説「宣告」(加賀乙彦)の主人公のモデルになった人です。
引用元は「ある死刑囚とのの対話」(加賀乙彦)です。
手紙の中に出てくる美絵さんという人は,「死刑廃止論」(団藤重光)によると,当時,修道院が経営する女子高校の先生だったとのことです。
お早う!
一番電車らしい。らしい,というのは時間の経過がよく分からないからです。
布団の中で,今日は,母ときみと仔猫の写真を胸に入れてゆくことに決めました。母のはコップを持って笑っているのを,きみはK先生とうつってるのを,
です。
いろいろ君へ忘れないように,と思うのですが,思い出せない。もうこれでいいのかな。
ヨゼフどのも,ぼくのために祈ってくださったでしょう。
やはり,死には厳粛な,そして深い意味があると思います。長年,ソレをみつめうようとして,みつめることが果たして出来たかどうか今となってもよく分かりませんが,とにかく前から,「死は,受け入れるものだ」というふうに考えてきたことだけは,たしからしい。
きみにとっても,ずっと将来,死は現実となるでしょう。しかし,もしもソノ時,死の世界に一人の十分信頼し愛しえた人がいるなら,死は,ふしぎなことにむしろ親しいものとなるでしょう。
みえ君。
あまり泣くと,可愛いその目がはれますよ。どうぞ,いいクリスマスと正月を迎えてください。タンジョービのお祝いも,もういってあげられないので,それらをひっくるめて「おめでとう!」と今,いってあげましょう。やっぱりAさまはやさしい・・・・と思うでしょう・・・
・・・・・・
きのうはね,母にアンマをしたり髪をすいたりしたのです。ぼくが。それから手をなでたりも。いい母ですよ。すっかりオバアチャンになって。小さくなって,ヨタヨタと杖をついて歩くのですが,ほんとにやさしい母なのです。
ぼくは母にとって本当にいけない子どもでした。母が可哀相でね。
どうぞぼくの分まで,また楽しい手紙を母に書いてやってください。母はきみの便りを本当に楽しみにしていました。
・・・・・・
みえ君。
いいシスターになるンですよ。
いつも明るく,楽しい,自然なシスターに。分かりましたね。そしてきみは今のままですでに十分そのようなシスターの資格がある。きみは生まれついての,すばらしいシスターです。
甘えたいときは,天をみなさい。
悲しいときも,嬉しいときも。
天をみなさい。
ぼくは,ソコにいるのですから。
もうすぐ七時。
八時にここを出る,ということなので今しがた洗面し,みなりをととのえました。
さあ,
いよいよ,お別れです。
ほんとうに悲しいけれど,みんなぼくの責任です。ゆるして下さい。
みえ君。
じゃあ,お元気で!
ぼくは今,ニッコリほほえみつつ,きみにむかって手を振っていますよ。
さあ,きみもそうしたまえ。
さようなら。
でも,またすぐに!!
団藤博士の前掲書には,「小木博士によれば,『私の知っているAは,生真面目なで冷静な思索の人であったが,美絵さんへの手紙に現れる彼は,ユーモラスで茶目で,明るくやんちゃな,子供のような人だった』のです」とありました。
憲法第9条と死刑
木村亀二は戦後,日本国憲法制定直後にいち早く憲法第9条が戦争を放棄しているのに,他方で死刑を肯定するのは深刻な矛盾であり,死刑は戦争放棄の根本思想によって憲法上許されず,死刑は憲法第9条に違反する,として廃止論に転じた。彼の理論はこうである。
新憲法は第2章において戦争の放棄を宣言してゐる。戦争の放棄は,国際的には平和主義を表示したものであるが,国内的には戦争の手段として個人の生命を國家のために犠牲とする超個人的な国家観を放棄したことを意味する。
一方において,戦争の放棄を宣言し,個人の生命を國家のために犠牲とすることを否定した憲法が,他方において刑罰といふ國家目的の必要から個人の生命を剥奪する死刑を規定してゐるとするならば,そこには大きな矛盾がある。
木村亀二博士は団藤重光博士よりも前の世代の刑法学者です。
むかしのことなので細かいことは覚えていませんが,木村博士の刑法総論を読んで,興味深く,おもしろかったという印象は残っています。
憲法第9条から死刑廃止まで論証するのはやや飛躍しすぎかなとも思うのですが,憲法第9条を深く読み込んで国家による個人の生命剥奪に強く反対したことは覚えておいていいと思います。
日本では死刑は特別な刑とみなされていない
ジョンソン教授はハワイ大学の教授です。同氏は,オウム真理教の教祖たちが死刑になったことについて,村上春樹氏が「自分は死刑廃止論者だが,この事件に限っては裁判所の判断は正しいと思う」と言ったことに批判を寄せていました。辺見庸氏と同じで,私もそう思います。
日本の裁判官も法務省も,死刑の選択・執行については「慎重に行っている」と言っているが,実際はそうではない,死刑は取り返しがきかない処罰であり,他の刑罰と比較して特別な刑罰であると理解されるのが通常だが,日本では死刑は特別な刑ではないようだ,と述べていました。
アメリカでは,死刑を求刑する事件については,検察官が公判開始のかなり前に裁判官と弁護士に説明するそうです。日本では,公判の最終日に裁判官が主文を読み上げることによって,はじめて死刑だということが分かります。
裁判員には,死刑を選択するには十分に慎重な判断をするようには求められていません。「永山基準」は裁判員に説明されていません。
アメリカでは12人のうち1人でも死刑に反対する陪審員がいれば死刑を宣告することはできません。
日本では職業裁判官1名を含む多数決で死刑を宣告できます。
同氏は,死刑を執行した千葉景子法務大臣(当時)に聞きとったところ,千葉法相は死刑の執行現場に立ち会ったが,言葉に表せないほどのショックを受けたそうですが,その後,死刑廃止に積極的な活動を行ったとは聞きません。
自民党のもとであっても,民主党のもとであっても,死刑を抑制的に考えるということはなかったとありました。
同氏は,憲法9条のために日本では死刑を廃止できないのではないか,と書いていました。憲法9条により,国家の実力行使を実現できないので,国の内側に向かって実力を行使するのではないか,とありましたが,私はそれは間違っていると思いました。
むしろ憲法9条の精神を考えるならば,国家の行為により個人の生命を奪う死刑制度を存置しておくのは矛盾であると説いた木村亀二博士の考えに同意します。
ジョンソン氏が実際に殺人事件を膨張したときのこと,裁判員2番は1時15分から1時45分までの30分間に32回居眠りをしたそうです。1時45分以降も居眠りをしていたそうですが,あまりにばかばかしくなって数えるのをやめたそうです。
そこまでひどくはなかったようですが,裁判長も居眠りをしていたそうです。
「殺人事件の裁判中は,裁判長は起きていた方がよいと思います。そう思いませんか」と同氏は裁判長に手紙を送ったそうですが,返事はなかったそうです。
人の生命がかかっているのに,居眠りをするとは何ということでしょうか。
まじめにやれ,と言いたいです。
人を殺してはならないということ
ところで,「死者の書」では死者が審判を受ける際の重要な基準として,「私は人を殺しませんでした」というものがあったそうです。つまり,十戒の「汝,殺すなかれ」は古代エジプトの考えを受け継いだのではないかとされています。
人はほっておけば殺人を犯すので,わざわざ殺人の禁止を言わなければならなかったのだと思います。
人以外の動物は,鋭い牙やくちばし,爪などを持っています。動物は同種の間ではけんかはしても,相手を殺すまでには至りません。けんかで負けた方は,自分の一番弱い箇所を相手に見せると,相手は本能によってこれ以上攻撃することはできません。もし,相手が降参しているのに殺害してしまっては,その種は絶滅してしまいます。
ところが人は本能が壊れてしまっているので,相手がどのような状況にあっても,あえて殺すことが可能です。人という種を存続させるために,あらゆる文明では殺人は最大のタブーになっているのだと思います。
聖書では「殺してはいけない」と言っているので,国家が人の命を絶つ死刑という制度も論理的に否定されるべきではないかという考えがあります。
一方で,申命記では「ふたりの証人または三人の証言によって,死刑は処せらなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない」と書かれています。
したがって聖書は死刑を肯定しているのか,反対しているのかはっきりとは分かりません。
しかしながら,殺人が人という種を滅ぼすものである以上,国家が個人の生命を断つことは国家による殺人であり,人類の到達点から外れるものだと考えます。
「死刑をなくそう市民会議」
同会議の主張を一部紹介します。
私たちは,あらゆる人の生命の尊さゆえに「たとえ人を殺めた者に対する刑罰であっても,その生命を奪ってはならない」との理念を持っています。「人間は,冤罪によって人の命が奪われることの不正義を防ぐことはできない」と考えています。
私たちは,死刑制度についての疑問や違和感を持っている多くの市民に向けて積極的に情報を発信し,国際社会の合意である「死刑のないすべての人の生命を尊重する民主主義社会」のすみやかな実現を目指します。
本設立集会が,死刑廃止への大いなる起爆剤になることを希求し,ここに多数の皆様の本会へのお参加を切にお願い致す次第です。
日時 2019年8月31日(土)13:30~17:00
会場 明治大学リバティホール 東京都千代田区神田駿河台1-1
主催 「死刑をなくそう市民会議」
〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-28-13-807
℡ 03-3294-3366
E―meil:siminkaigi@ccacp.jp
呼びかけ人は2019年6月1日現在48名です。
その人々のお名前を一部をお知らせします(敬称略)
村山富一(元内閣総理大臣),横路孝弘(元衆議院議長),二見伸明(元衆議院議員),不破哲三(元衆議院議員),湯川れい子(音楽評論家),山田洋次(映画監督),イーデス・ハンソン(タレント),平田オリザ(劇作家),赤堀政夫(「島田事件」冤罪元死刑囚),免田栄(「免田事件」元死刑囚),安田好弘(弁護士),海渡雄一(弁護士),田鎖麻衣子(弁護士),森達也(映画監督),佐高信(評論家),中山千夏(作家),加賀乙彦(作家),雨宮処凛(作家),笹倉香奈(甲南大学法学部教授),佐々木光明(神戸学院大学教授),カン・ソンジュン(東京大学名誉教授),浜矩子(同支社大学教授),デビッド・ジョンソン(ハワイ大学教授),神田香織(講談師),袴田秀子(袴田厳の姉)
死刑囚と家族になるということ
林眞須美死刑囚は頼み込んで労働運動家の養女になるべく養子縁組をしたそうです。
宅間守元死刑囚には結婚を考える女性がいました。
A子さんは,公判のたびに傍聴に訪れ,拘置所を訪れて差し入れも行いました。宅間元死刑囚は,刑確定後も会いたいと手紙に書き,「今まで数々の金品の差し入れ本当にありがとうございました。JRか近鉄かで,わざわざ何回も大阪へ足を運ばれたあなたをよく想像していました。座席に座れたかな,立っているんじゃないだろうか。風景を見ながら来られるのかな,それとも雑誌を見ながらといろいろ想像しておりました」と,世間や親に激しい憎悪を剥き出しにし,遺族までも侮辱した人間でしたが,このようなやさしい思いやりももっていました。
もう一人の女性B子さんは,自ら押印した婚姻届を弁護士を通じて拘置所に届け,宅間元死刑囚の妻になりました。家族は猛反対しましたが,自分の姓を変えて家族に迷惑がかからないようにしていました。アムネスティの活動に参加し,死刑制度に反対していたクリスチャンの女性でした。
宅間元死刑囚は,「謝罪と社会的制裁を,そして母親から出来るだけたくさん,金を取っていただきたいのです。それをB子さんの第二の人生の資金にしてもらって,僕はこの世を去りたい。無償の精神であそこまでしてくれる女はめったにいない。だからだからB子さんは拒否するだろうが,まとまった金を天にかわって,あげたいのです」と手紙に書いていました。
宅間元死刑囚「執行されるまで離婚しないで欲しい。遺体のままで外に出して欲しい。君と同じ墓に入りたい。僕が君の思想に反する人間であったとしても,最期まで僕に会いに来てほしい」
B子さん「あなたにお願いされなくとも,私はそうするつもりだったし,そうしたいと思っている」
執行後刑務官からB子さんに告げられたこと「最後に,奥さんに宛てて,“ありがとうって,僕が言ったたって伝えてくだい”って言ってました」
B子さんが「皆さま」へあてた文章の最後の部分「夫,宅間守の犯した事件により,亡くなられました被害者の皆様,そしてご遺族の方々に対しまして,本人の中から贖罪の意識を引き出せないままに終わってしまったことに,今は心から慙愧の念に堪えません。力不足でした。本当に申し訳ありません」
死刑が確定してしまうと,死刑囚は家族と弁護士以外には面会することができません。
それで家族となるべく,獄中結婚を行うわけです。
宅間元死刑囚も人間らしい気持をもっていたのだな,と思います。B子さんの真摯な思いが通じたのかも知れません。
死刑囚と家族になるということ(2)
クリスチャンとして死刑囚をサポートするために手紙や接見を行っていたC子さんに,Xは手紙で養子にしてほしいと申しでました。
C子さんがXに面会したのは4回ほどでしたが,悩んだ末に養子縁組をすることを決断しました。若いときからキリスト教会に出入りしていたので,重い障害を持って生まれてきた子どもを養子にしていく夫婦,シングルの人が障害児を養子にするとか,我が子を殺した青年を養子にしたケースとかを国内外で多数見てきたこと,自身が虐待児童の里親になったこともあって一般に思われるほど苦ではなかったそうです。
XはC子さんの復縁に伴い,C子さんの子どもたち3人と兄弟になりました。Xと15年ほど付き合いのある教戒師は「X君は本当に落ち着いている」と語ったそうです。子どもたちも死刑確定前からXと文通とか面会とかもしているので,無理やり従わせたわけではなく,C子さんがよく面会しているのを見てついてくるようになったそうです。
C子さん「私たちの子どもたちは,私とX君との関係を知っていて死刑囚への偏見は全くないのですが,娘がこれから大きくなって結婚ということになった場合,もしかしたらX君のことが問題になることもあるかもしれません。でも私は娘にも,もし結婚したい方ができたらX君のことも隠さずきちんご話をしなさいと言っています」
自由学園の創設者である羽仁もと子さんは「ゆるしは,人間が行う最も尊い行いである」といった旨の発言をしていたように思います。死刑囚と家族になる人は,死刑囚をゆるし,理解しようと努めることが使命なのかも知れません。世間から非難される可能性もあるだけに,なかなか簡単なことではありません。
永山子ども基金
1997年8月1日に永山則夫死刑囚が処刑されました。8月4日に遠藤誠弁護士(ノリオちゃんと呼んで可愛がっていたそうです),安田好弘弁護士,田鎖麻衣子弁護士及び大谷恭子弁護士が彼の遺骨,遺品を引き取りました。その際,刑務官から遺言がありますと聞かされたのが,「印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ,特にペルーの子どもたちに送ってほしい」ということでした。
1996年にペルーで起こった「日本大使館占拠・人質事件」で犯人グループの中に16歳の子がいたことを知り,ペルーの「働く子どもたち」と子どもたちを支援する活動を知るようになりました。貧困と虐待から,小学校のころから新聞配達などを行い,逮捕時には読み書きするままならなかった彼が,貧しい子どもたちが生活のために働かざるをえない状況に憂慮し,何とか助けたいと思ったのかも知れません。
永山死刑囚の死刑執行後,遺言に基ずき遺族や弁護士が基金を設立し,印税1000万円がナソップ(働く子どもたちの組織)に送られました。
ペルーの子どもたちが言うには,「ペルーには1ソル(約40円)を稼ぐために売春をする子どもがいる。罪を犯さざるをえない社会的要因があります。」,「ナガヤマは人は変われると体で証明し希望を与えた。彼の意志を引き継ぎます。」,「ノリオ・ナガヤマを尊敬する。だけど僕らはナガヤマのような犯罪者には絶対にならない。」などだったそうです。
永山死刑囚の体は消滅しましたが,彼の意志が受け継がれ,実際にペルーの働く子どもたちの役に立っているのは感慨深いものがあります。
子ども基金で大学に行き,今は国会議員になりましたとの女性から感謝の言葉が寄せられたそうです。他にも,看護師さんになりたい,先生になりたいとかいろいろ夢をもっているけれど学校を続けられない子が多いものの,基金で専門学校に行きたいという希望を具体的に実現させたそうです。
チャリティコンサートは2004年から毎年開催され,その収益金も奨学基金として活用されているそうです。
痛感させられる死刑制度は過った過去の遺物
多くの国で死刑は廃止され、アメリカでも半分の州が死刑を廃止・停止している中で時流に逆らう行為です。
「トランプ」とえいば、人種差別主義者、女性差別主義者、排外主義者として有名です。
いずれも過った過去の遺物ですが、それに固執する「トランプ」。
だから過った過去の遺物である死刑を廃止するのではなく執行に前向きになれるのです。
トランプ政権による非道で人権軽視の最新事例であり、アメリカの進歩と正義に逆行する行為です。
2019年8月2日の死刑執行に強く抗議する
死刑廃止がもはや世界の常識となる中で、本日、山下貴司法務大臣の命令により、庄子幸一さん、鈴木泰徳さんの2名の方に対して死刑が執行されました。
国の行う人殺しによって命を奪われた2名の方の冥福を心より祈ると共に、死刑執行という突極の人権侵害に強く抗議します。
せめて事前告知を
13.委員会は,死刑が相当する19の犯罪のうちいくつかの罪が,死刑を≪最も重大な犯罪≫に限るとの規約の要請を充たしていないこと,死刑確定者がいまだに死刑執行まで最長で40年の期間,昼夜間独居に置かれていること,死刑確定者もその家族も死刑執行の日以前に事前の告知を与えられていないことについて,依然として懸念を抱く。さらに委員会は,死刑確定者とその弁護人との面会の秘密性が保証されていないこと,死刑執行に直面する人が「心神喪失状態」にあるか否かに関する精神状態の検査が独立していないこと,再審請求あるいは恩赦の請求に死刑執行を停止する効果がなく,有効でないことに留意する。そのうえ,袴田巌の事件を含め,強制された自白の結果としてさまざまな機会に死刑が科されてきたという報告は,懸念される事項である。
締約国は,以下の行動をとるべきである。
(a) 死刑の廃止を十分に考慮すること,あるいはその代替として,死刑を科 しうる犯罪の数を,生命喪失に至る最も重大な犯罪に削減すること。
(b) 死刑確定者とその家族に対し予定されている死刑執行の日時を合理的な 余裕をもって事前告知すること,及び,死刑確定者に対して非常に例外的な 事情がある場合であり,かつ,厳格に制限された期間を除き,昼夜独居処遇 を科さないことにより,死刑確定者の収容体制が残虐,非人道的あるいは品 位を傷つける取扱いまたは刑罰とならないように確保すること。
(c) とりわけ,弁護側にすべての検察側資料への全面的なアクセスを保証 し,かつ,拷問あるいは虐待により得られた自白が証拠として用いられるこ とがないよう確保することによって,不当な死刑判決に対する法的な安全装 置を即時に強化すること。
(d) 委員会の前回の総括所見の観点から,再審あるいは恩赦の申請に執行停 止効果を持たせたうえで死刑事件における義務的かつ効果的な再審査の制度 を確立し,かつ,死刑確定者とその弁護人との間における再審請求に関する すべての面会の厳格な秘密性を保証すること。
(e) 死刑確定者の精神状態の健康に関する独立した審査の制度を確立するこ と。
(f) 死刑の廃止を目指し,規約の第二選択議定書への加入を考慮すること。
死刑廃止を一挙に進めることができないのであれば,せめて死刑執行日よりも事前に死刑確定者への執行告知をすべきだと思います。以前は失効日の前日には告知をしていたのですが,告知後に執行をする前に死刑確定者が自殺することがあってから,告知は失効日当日に切り替えられたとのことです。
国家が殺す前に自殺することは許さないという論理なのでしょうか。
奈良女児殺人事件の小林薫死刑囚が7時45分に連れ出され8時4分に死亡が確認されたことについて,中道弁護士は「とても私には信じられない。もしそれが前提であれば,強引に連れ出し有無を言わさずに縛ったとしか思えない」と語っていました。
有無を言わさずに首を縛ったというのは,とても恐ろしい行為だと思います。
アメリカで無実を主張し続けた死刑囚が執行される。
状況証拠に基ずく殺人容疑で死刑を宣告され,2000年から死刑囚監房に入れられていました。死刑を宣告されてからも,無実を訴え続けていました。
問題なのは複数の法医学者が,殺害された女性の遺体の死亡推定日が,スウェアリンジェンさんが逮捕された後だと証言していたことです。
死刑囚に恩赦は適用されないのか。
アムネスティの最高意思決定機関であるグローバル会議の会合
(GAM:Global Assembly Meeting)が2019年8月2日から4日までの間,南アメリカ共和国のヨハネスブルグで開催されました。日本支部からは常任代表の副理事長,ユースの女性2名及び事務局長の総勢4名が出席しました。世界中から70の支部や準支部の代表,国際事務局や国際理事会や委員会のメンバーほか
総勢300人以上が集まったそうです。
国際理事9名のうち4名が今回は改選されたのですが,4名中3名がアジア太平洋地域出身であり,ニュージーランドからはマオリ族の人でした。欧米中心から大きな変化があったそうです。
グレタ・トゥーンベリさんの行動の影響もあり気候変動は人権問題であるという意識が広がりつつあるそうです。アムネスティが投資をする際は,化石燃料に投資している企業を選ばないことがヨーロッパから提案されたそうです。
イスラエルによるパレスチナの軍事占領・人権侵害という名指しはなかったものの,軍事占領に関するポリシーの起草について,アメリカから提案があったそうです。
休憩時間中にいろいろな人と話したのですが,選挙違反者を恩赦するなんておかしい,死刑囚こそ恩赦すべきであると話している人がいました。私とまったく同じ考えの持ち主です。金子文子死刑囚は恩赦をうけましたが,恩赦状の受け取りを拒み自殺しました。
以前のことのようですが,再審を考えていた死刑囚がいたのですが,近く恩赦がある,再審請求をしていると恩赦にならないとさとされ,再審請求をしないでいたところ,そのまま処刑されたそうです。ひどい話です。
日本で死刑が執行されたことをつぶやいたところ,カナダから「日本ではまだそんな野蛮なことをしているの」と驚かれたそうです。
日本の人権をめぐるひどい状況は外国にはほとんど伝わっていないので,外国語で積極的に発信することの重要性を教えてもらいました。
このたび法務大臣に就任した河井克行はカトリック信者であり,私の後輩だから,地元の事務所に押しかけて,せめて在任中は死刑執行に署名しないよう求めよう,と盛りあがりました。
GAMに出席していた事務局長が言っていたのですが,昨年も今年もGAMの初日に日本では死刑が執行されたそうです。来年もそうであるならば,それは意図的と考えざるをえないとのことでした(昨年はオウム真理教幹部の死刑執行)。
2019年12月26日の死刑執行に強く抗議する
日本政府は、国連の総会決議や人権理事会の普遍的定期審査、そして複数の国連人権機関から、死刑の執行停止と死刑廃止に向けた取り組みを行うよう、繰り返し強く勧告されているにもかかわらずそれをあざ笑うかのように第2次安倍政権では、これで17度目、計39人という異常なハイペースで死刑の執行が行われています。
死刑制度が誤った過去の遺物になる中で突極の人権侵害である死刑制度の維持・正当化を狙う偏向した姿勢の表われそのものです。
国の行う人殺しによって命を奪われた魏巍(ウェイウェイ)さんの冥福を心より祈ると共に本日の死刑執行に強く抗議します。
被害者遺族の感情は一様ではない。
愛知県に住む原田正治さんは,実弟を保険金殺人で失った被害者遺族である。その主犯の一人の死刑囚から,原田さんのもとに手紙が届くようになった。初めは読まずにうち捨てていたものの,やがて原田さんは彼と,文通そして面会をするようになる。ところが,裁判が終わり死刑が確定すると,原田さんと彼との交流は,拘置所によって禁じられてしまう。加害者が,被害者遺族と向き合うことすら許さない死刑確定者処遇を,原田さんは静かに,しかし強く弾劾する。原田さんは,彼の犯し罪を許すことは決してない。しかし,死刑にされるのではなく,一生罪を償ってほしいと語る。そんな原田さんのところへは,毎日無言の嫌がらせ電話がかかってくるという。勇気をもって実名を明かし,犯罪被害者遺族の立場で死刑制度へ疑問を語るようになってからのことだ。被害者感情,被害者の保護,被害者の権利,そして何より人の命,それらを本当に尊重したいと願う人が,犯罪被害に今も苦しむ遺族に嫌がらせの電話をするだろうか。
私たちは,厳罰化を唱え死刑の存置を願う声,動きと,被害者保護を真摯に追求する声とを明確に区別しなければならない。そして,被害者保護の対象は,死刑制度があるなしにかかわらず必要なことであり,刑罰制度や刑事訴訟法制度の枠内で解決のつく問題では決してない。被害者問題をたてにしての死刑制度存置論は,被害者保護の課題そのものの価値をおとしめることではないだろうか。
このように被害者遺族によっては,死刑でなはく一生をかけて罪をつぐなってほしいという人もいます。被害者感情を持ち出して,死刑制度に疑問を持つ被害者遺族にいやがらせをするとは何ということでしょうか。
被害者保護の対象は死刑制度の存否にかかわらず必要であり,被害者問題をたてにした死刑存置論は被害者保護の課題の価値をおとしめるという田鎖弁護士の指摘はまったく正当だと思います。
訂正します。
お詫びして訂正します。
障がい者と死刑制度
この事件では犯人であると自白した者が複数人いるなど,その取り調べの過酷さが想像できます。
当時,全障連は赤堀さんの死刑には反対を表明していましたが,死刑制度そのものの廃止までは踏み込んでいなかったようです。
障がいを持つ人は,警察や検察といった怖い人から,恫喝され威圧的な言葉で迫られたら,比較的容易に虚偽の自白をしてしまうのではないでしょうか。
自白偏重で,検察は被告の有罪を証明する証拠は提出するが無罪を証明する証拠は提出しない日本の司法制度では,障がいを持つ人は死刑事件ではきわめて弱い立場にあるのではないでしょうか。
1970年に障がいを持つ子を殺害した母親の事件がありました。当時,母親に対する減刑嘆願書が集まったのですが,脳性麻痺の会「青い芝の会」はこの減刑運動を批判しました。障がいを持った子は手間がかかる,だから障がいを持たない子を殺害したよりも,障がいを持った子を殺害したときの方は減刑すべきであるというのは障がい者の尊厳を侮辱するものである,といった趣旨だったかと思います。
「福音と世界 2020年2月号」で編集者のあとがきで,「障害」と言わずに「障がい」と表記するのが一般的だけれど,障害はその人のネガティブな属性などではなく,社会が「できなくさせている」状況なのだから,「障害」という言葉を使っても障害者を侮辱しているわけではないので,「障害」ということばを使ってもよいのではないか,と書いている編集者がいて,なるほどと思いました。
障がいは,人間社会に固有の問題だと思います、動物の世界のことは詳しく知らないのですが,サルでもライオンでも生まれながらに障がいを持って生まれてくる子はいると思います。しかし,人間のように,障がい者は後回し,余裕があるときだけ相手にし,生産性がないなどとは思わず,集団全体で障がいを持って生まれてきた子を守ろうとするのではないでしょうか。
共生だの,障がい者差別取扱い禁止などと言いながら,私利私欲のために宴会を張り,都合の悪い出席者名簿は障がい者雇用の職員が破棄裁断してしまったなどと言ってのける首相は何ともおぞましいかぎりです。
相模原事件で19人を殺害した青年は,責任能力に問題がなければ,3人以上を殺害した場合は自動的に死刑となる現在の日本の裁判では間違いなく死刑になるでしょう。
しかし,死刑を肯定するのは「生きるに値しない人」を認めることであり,事件を起こした青年の考えと五十歩百歩ではないかという指摘はよく考えておくべきだと思います。
障がいを持つ人に憐れみをかけるなんてお前は何様だ,上から目線で言っていいのかと批判を浴びそうですが,あくまで一般的なこととして次のことばをかみしめていただききたいと思います。
Bienaventurados los misericordiosos,porque ellos alcanzarán
misericordea.
(憐れみ深い者は幸いである。なぜなら彼らは憐れみを受けるだろうからである)
すみません,スペル間違いがありました。
おわびして訂正します。
死刑反対世界会議に関して考える。
2007年2月7日,バチカンはパリで開催された「死刑反対世界会議」に合わせて「死刑は人間の尊厳に対する侮辱」との見解を表明しました。
ノルウェーのオスロで,第6回死刑反対世界会議が2016年6月21日から23日までの間開催されました。
日本からは袴田厳さんの姉である秀子さんが参加し,釈放されるまでの間,弟の精神状態がおかしくなる一方で,弟の無実を信じて生き続けた日々をふりかえり,えん罪の恐ろしさを訴えました。会場は聴衆による拍手で包まれました。
ノルウェーでは2011年に77人の生命が奪われた連続テロ事件がありました。ブレイビク容疑者に対する禁固刑21年が最高刑でした。当時ノルウェーでは,事件のために国の制度や価値観を変えることは「まさにブレイビクの思うつぼになる」と,憎しみに対して,さらなる憎しみで向き合うことを政治家と世論は拒否しました。刑務所の環境が快適すぎるのではないかという声はあるものの,死刑を望む世論の動きは見られません。
ノルウェーのブルゲ・ブレンデ外務大臣は,世界会議の公式プログラムの中でこのように述べました。「死刑制度は,人間の尊厳を傷つけるものです。どのような重犯罪であっても,死刑は適切な対応策ではありません。国家は,罰や復讐として,人命を奪うべきではないのです。なによりも,間違いをおかさない,完璧な司法制度というものは存在しません。無実の人への死刑宣告が絶対にありえないと確信することは,誰にもできません」。
第16回世界死刑廃止デーのときの在日フランス大使館の記事を紹介します。
フランスは第16回世界死刑廃止デーに際して,いかなる場所,いかなる状況でも死刑に反対する立場を改めて表明します。フランスは公平で非人道的かつ抑止効果がないこの懲罰の全世界的な廃止に取り組むとともに,すべての死刑存置国に対して,最終的な廃止に向けたモラトリアムを確立するよう呼びかけます。
・・・・・・フランスはすべての国に対し,2019年2月27日から3月1日までブリュッセルで開催される第7回死刑反対世界会議に向けて行動を起こすよう呼びかけます。さらに各国に対し,第73回国際連合総会による全世界的な死刑執行モラトリアムを呼びかける決議の採択を支持するよう呼びかけます。
日本の死刑を容認する80パーセントくらいの人々は「死刑は人間の尊厳への侮辱である」などとは考えたことはないだろうと思います。
そもそも日本においては,人権を擁護するという意識が薄いのではないかと思っています。
死刑は日本の文化なのか
2002年5月,「欧州評議会オブザーバー国における司法と人権」という国際会合で森山真弓法務大臣(当時)が死刑は日本の文化であると発言し,大きな波紋をよんだ。森山法務大臣は「死んでお詫びをする」という表現を持ち出し,「この慣用句には我が国独特の,罪悪に対する感覚が現れているのではないかと思います」と述べた。要するに,日本が死刑制度を存置しているのは,罪悪をめぐる文化的な背景があるからだと主張したのである。
しかしこの発言はヨーロッパで大きな批判を巻き起こした。死刑の問題を文化の問題とみなすことはおかしいのではないか,司法や人権の問題は文化の問題に還元されるものではなく,文化をこえて普遍的に議論されるべきなのであるというのがヨーロッパの人たちから見た考え方だった。
考えなくてはならないのは、死刑は日本の文化なのかどうかということではない,たとえ死刑は日本の文化であっても,それによって死刑を正当化できるのか,ということである。
文化相対主義の立場からすれば,死刑廃止といえども一つの文化的な価値観の反映にすぎず,それを普遍的に正しいと考えることはできない。ヨーロッパの価値観からすれば死刑廃止は正しい道かもしれない。しかしなぜそれがヨーロッパ以外の地域でも適用されるべき正しい道といえるだろうか。
「文化である以上,死刑は正当化される」と考える文化相対主義からは「死刑はその国の文化の問題である以上,他国の人々がとやかくいうべきではない」という主張があり,事実,欧州評議会からの批判に対して,日本政府は刑罰権への内政干渉は認められないという立場をとっている。
日本ではかつて間引きといって,口減らしのために嬰児や子どもを殺す風習があった。しかし,それが現代においても「文化だから」という理由で許されると考える人はほとんどいないであろう。
イランやアフガニスタン,ソマリアなどでは,現在でも不倫をすると姦通罪に問われ,石打ちの刑によって死刑を行っている。
中東や南アジアにおいては,「名誉の殺人」がある。婚前交渉や婚外交渉を行った女性(妻や娘)を,家の名誉をけがした存在として,その父や男兄弟が家の名誉を守るために殺してしまう風習である。「男を目で誘惑した」などという理由で家族に殺されてしまう場合もあるという。また,強姦された場合でもそれが「家の名誉をけがされた」とみなされれば名誉殺人の対象になる。
名誉の殺人はあくまでも私刑であり,公権力による死刑ではない。ただ,多くの場合風習の問題として公権力によって黙認されている。
2010年3月,国連人権高等弁務官は世界で毎年5000人の女性が名誉の殺人で命を落としているという調査結果を発表した。
とくに問題なのは,こうした事例では冤罪の可能性がほとんどかえりみられないということだ。とりわけこうした事例では女性が姦通や誘惑のうわさだけで罪をきせられる場合が多々あり,女性の人格を蹂躙する文化的価値観がそうした冤罪を助長させている面があることは否定できない、
これに対して普遍主義は死刑を文化をこえた問題だと考える。それは人権にかかわる普遍的な問題であり,人権が各文化の価値観によってゆがめられてはならないのと同様に,「死刑を存置するか廃止するか」という問題も各文化の価値観によって決められてはならない。
私たちは死刑の是非について普遍主義的に考えなくてはならないが,だからといってそこから自動的に死刑反対が正しいということにはならない。
もし私たちが死刑を肯定したければ,「死刑は日本の文化である」と主張するのではなく,普遍的な論理で死刑が正しいことを主張すればよいのである。
「死刑は基本的人権を侵害するのではないか」という問いに対しても,必要なのは「死刑は必ずしも人権を侵害しない」ということを論証することなのである。
死刑反対派はしばしば「死刑廃止は国際的潮流であり,日本も廃止すべきだ」と主張する。
しかし,死刑廃止が国際的潮流だとしても,そこからただちに死刑廃止が普遍的に正しいということにはならない。「国際的潮流である以上,死刑を廃止すべき」と主張する人たちは,核兵器の保有が国際的潮流になれば「核兵器を保有すべき」と主張するのだろうか。なぜそれが正しいのかということを説明していない点で,「国際的潮流だ」と考えることは「文化だ」と考えることと同じように空虚なのである。
以上で引用終わり。
「死刑は日本の文化である」「死刑廃止は国際的潮流である」と,そこで思考停止してはいけないのだということだと思います。
死刑は人間の尊厳に対する侮辱であり,とくに冤罪として無実でありながら強制的に国家により命を奪われることは人権蹂躙の最たるものと考えます。
やはり死刑を廃止すべきであり,死刑を廃止するためにはどうやったらよいのか考え続ける必要があると思います、
ロシア検察当局の殺人事件をめぐる動き
長女クリスティーナ・ハチャトリアン,次女アンゲリーナ,三女マリアは
2018年7月に父親のミハイルさんを自宅で刺殺しました。
ミハイルさんは事件当時それぞれ19歳,18歳,17歳だった3姉妹をレイプしたり,虐待したり,学校へ行くことを妨害していました。
重大犯罪を捜査する連邦捜査委員会は,長女及び次女を計画的殺人罪で起訴するよう勧告していました。有罪となった場合は最大で禁固20年が言い渡される可能性がありました。三女については,精神障害があるとされ,厳重な精神科施設への収容が必要と判断されました。
ところでハチャトリアン3姉妹の弁護人は「事件は終結する。検察当局が連邦捜査委員会に事件性がないよう求めた」と明かしました。父親の意図的な虐待を検察当局が考慮しなかったとして,次席検事が起訴の同意を拒否したからです。
弁護人や活動家は,姉妹が自分の命を守るために父親の殺害を余儀なくされたと主張し,DV被害者に対するロシアでの法的保護が不十分であることを指摘していました。
このニュースを聞いて,ベアトリーチェ・チェンチのときとまったく同じだなと思いました。同じ事件なのにベアトリーチェは斬首されました。
400年以上前の人ですが,とても不憫でなりません。
リビングに飾ってあるグイド・レーニの作と言われる「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」のレプリカを見ながら考えてしまいました。
団藤重光博士の死刑廃止論の核心
百歩を譲って,死刑の廃止による凶悪犯罪の増加ということがある程度実証されたとしても,私は,かりそめにも無実の者の処刑という人道上絶対に許すことができないような不正義の犠牲において,刑事政策を優先させるということは,とうてい認めるわけには行きません。それでもなおかつ刑事政策を優先させるべきだという議論をする人がもしいるならば,私はその人の人間としてのセンスを疑わざるを得ないのであります。
イギリスには,「一人の無実の者が処罰されるよりは十人の真犯人が免れる方がよい」という法格言があります。これは非常によい格言のようですが,「十人」とは言っているものの,「五十人」「百人」まして「千人」の真犯人などとは言っていないのです。死刑事件については,たとい「百人」「千人」に一人であろうも,いやしくも無実の者が処刑されてはならないのではないでしょうか。と言うことは,取りも直さず,死刑を廃止する以外にはないということだと思うのです。
団藤博士は刑法学者であるとともに最高裁の裁判官を務めただけあって,実務に裏ずけられた切実な死刑廃止論だと思います。博士の死刑廃止論の核心は,無実の人が処刑されてはならないという強い信念にあると思います。
団藤博士はイギリスにおける例を紹介しています。
1956年の「殺人(死刑廃止)法案」が議会に提出されたときに,無実の者が処刑されてしまうリスクの有無の問題に関して詳しい討議が行われ,内務大臣が自信たっぷりに「近時においては,無実の者が絞首刑を執行されたようなメースがあるとは自分は信じません」と答弁したので,法案は成立しませんでした。
ところが1950年に処刑されたティモシー・ジョーン・エヴァンズが,その後真犯人が現れて実は無実であってことが判明して,死後恩赦が与えられるということが起きました。これで事態は一変して1956年の法案が一気に通過しました。
日本でも無実の者が処刑されたことが判明したとき,死刑存廃についての議論が巻き起こる可能性があるかも知れませんが,議論が巻き起こるために無実の者が処刑されてしまうことは絶対にあってはならないことだと思います。
和歌山カレー事件については、ほとんど状況証拠の積み重ねであるとともに,必ずしも絶対に正確とは断言できない物証のために,冤罪である可能性が高いと思います。
死刑制度を悪用する人たち
犯行の動機については,第3回公判で「死刑のため」と述べました。弁護人から「死にたいのか死刑になりたのかどちらですか」と聞かれ,「死にたいが先です。その手段が死刑です」と答えました。さらに弁護人から「何人殺しても死刑にならないというのであれば,事件は起こさなかった?」と聞かれると,明確に「はい」と答えました。
一審判決前の2009年6月,水戸拘置所で産経新聞の取材に答えた金川死刑囚
は,死刑になることが犯行の理由であり,早く死刑になりたいと述べました。また,拘置所内では「日々,殺すことしか考えていません」と告白し,「殺すこととは,もし外に出られたら,どうやってまた殺しをするかということです。それは死刑になるためです。もし今解放されたら,また殺人をするかと問われたら,答えは『します』です」と断言したそうです。
2003年8月埼玉県熊谷市のアパートで風俗店店長の男性を殺害し,それを目撃した3人の女性を拉致し,1人を殺害,2人に重傷を負わせた尾形英紀死刑囚は,次のように手記の中で述べました。
俺の考えでは死刑執行しても,遺族は,ほんの少し気がすむか,すまないかの程度で何も変わりませんし,償いにもなりません。俺個人の価値観からすれば,死んだ方が楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。死を覚悟している人からすれば,死刑は責任でも償いでも罰ですらなく,つらい生活から逃がしてくれているだけです。だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。
死刑を悪用する人が例外的だとしても,最近では実際に存在しています。
死刑制度はそういう人に対して無力になっているのではないでしょうか。
国家秩序維持のための死刑制度
内乱罪は人を殺したことが構成要件にはなっていません。
国家秩序はそのまま法秩序であり,法秩序はすなわち国家秩序です。内乱罪はそういう法(国家法)を滅却する行為ですから,法はその犯人の存在を否定する以外にないというのが,おそらく内乱罪についての死刑を規定する理由だと思います。このように内乱罪と殺人罪とでは,死刑の根拠が違いますから,イデオロギーによっては,一時期のソ連のように,殺人罪には死刑を規定しないで,反革命の罪には死刑を規定するような立法例さえもが見られたくらいです。個人の生命よりも革命的体制の方が重要だという考えです(「死刑廃止論」団藤重光・有斐閣)。
旧刑法を立案したボアソナードは内乱罪について死刑を廃止すべきだと主張していました。
第一に,政治犯は個人の犯罪ではないから,首謀者を死刑にすることによって他の者の犯行を抑圧できるどころか,むしろこれを激発する。
第二に,政治犯を通常犯罪と同じ扱いにするのは不正義であり,政治犯について死刑を廃止するのが衡平に合致する。
第三に,政治犯は既遂にならなかった場合にしか罰せられない。政治犯が罰せられるのは,未遂の形態だけである。未遂が当然に刑を減刑すべきものであるとすれば,それに死刑を科するのは非論理的である。
刑法第37条は「天皇,大皇太后,皇太后,皇太子又は皇太孫に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す」と規定していました。
天皇が命を落としたわけではないのに,幸徳秋水たちはこの規定によって死刑となりました。
皇太子に爆弾を投げつけようと計画していたとして,金子文子は死刑を宣告(のちに恩赦により無期懲役に)されました。
これらはいずれも国家秩序を危うくするということで死刑宣告がなされたものです。
治安維持法は日本の内地では日本人が死刑に処せられたことはありませんでしたが,2000人ほどの朝鮮人が処刑されたと言われています。
中国では麻薬の持ちこみに対して死刑をもってのぞみ,このために処刑された日本人がいます(2010年4月6日に赤野光信さんが覚せい剤密輸の罪で死刑を執行された)。ポルノ製品の所持だけで処刑されることもあるようです。
このように死刑は純粋法学的なものではなく,政治色の強い制度だと思います。
イギリスではわずかな窃盗を行った子どもを多数処刑してきた歴史があります。いったいどこに国家秩序を破壊する理由を見つけたのでしょうか。
理由をつければいくらでも死刑は可能となってしまいます。それほど死刑はあやふやで恐ろしい制度なのだと思います。
虚偽自白について
再審第5回公判では録音テープで菅家さんを追及した森川大元検事に対する証人尋問が行われました。
弁護側「真美ちゃん事件で少しでも無実と思ったことはないですか」
森川元検事「ないです」
菅家さんが釈放されたとき,足利事件で陣頭指揮をとった森下昭雄元刑事部長が報道機関に語ったこと
まだ(再審で)無罪が確定したわけでは無く,自供も得ているし,(菅家が)犯人だと信じている。
驚くことに,この録音テープでは,菅家さんが警察に対して別の二つの女児殺害事件についてもいったんは犯行を認めていたことです。それだけ警察の取り調べが厳しかったということでしょう。結果的にその二つの女児殺害事件は証拠不十分につき起訴されませんでした。
あるベテラン刑事の発言
人間はな,そんなに強いもんではないよ。細かな所はどうでもいい,キメ手などは出さんでもいい,ただ殺しを自供させてくれ,と被疑者をあてがわれれば,三人でも四人でも同じように自白させてみせるよ。今どきそんなことが,という顔をしているナ。何ならやってみるか。お前さんでもいいよ。お前んとこは刑事の手の内を多少聞きかじっているから,少しゆとりを見て,そう三日でいい。三日あったら,お前に殺人を自白させてやるよ。三日目の夜,お前は,やってもいない殺人を,泣きながら自白するよ。右のとおり相違ありません,といって指印を押すよ(「冤罪はこうして作られる」小田中聡樹・講談社現代新書)。
恐ろしい発言です。島田事件のときに複数の自白者が出たというのもよく理解
できます。
当然ながら,犯人は逮捕や起訴を避けるために,そう簡単には本当のことを言わないだろう。その結果,捜査当局は知らず知らずのうちに虚偽の「自白」を強要してしまうことがあるのである。
虚偽の「自白」を導いてしまう危険性は,犯罪を取り締まる捜査当局の活動そのもののなかに避けがたく含まれているのだ。
そうである以上,冤罪の可能性もまた避けがたくそこには含まれていることになる。構造的に,冤罪の可能性を公権力の活動は排除できないということだ(「死刑 その哲学的考察」萱野稔人・ちくま新書)。
冤罪が判明された足利事件について
それを受けて再審公判が2009年10月21日に開始されました。菅家さんが釈放されて4ヶ月後のことでした。つまり検察は再審がなされる前に判決で確定した刑の執行を停止し,菅家さんを釈放したわけです。
菅家さんは17年もの間無実の罪で拘禁されていました。過酷な取り調べは1日5時間に及び,足を蹴る,髪の毛をつかむなどの暴行も行われたそうです。
菅家さんの有罪判決の決め手になったのは,科警研が行ったDNA鑑定で女児の下着に付着していた精液のDNA型が菅家さんのものと一致したということでした。
菅家さんの弁護側は東京高裁が控訴を棄却した1997年に日本大学医学部の押田茂實教授に独自のDNA鑑定を依頼したところ,両者は異なるという結果が出ました。
弁護側は押田鑑定を上告審の補充証拠として最高裁に提出し,DNAの再鑑定を請求しましたが,最高裁はこれを取り上げず有罪判決が確定しました。
再審公判が開始されたのが2009年になってからなので,押田鑑定を補充証拠にしてDNA再鑑定を裁判所に請求してから12年かかったわけです。
1993年の一審(宇都宮地裁),1996年のニ審(東京高裁)判決いずれにおいても,裁判所は科警研によるDNA鑑定の結果を証拠能力があると認定しました。
弁護側は1997年に最高裁に押田鑑定を提出し,DNA再鑑定を請求しましたが,最高裁は2000年裁判官全員一致で科警研のDNA鑑定の結果を裁判の証拠と認める判断をくだし,上告を棄却しました。
2002年に菅家さんは宇都宮地裁に対して再審請求を行いました。2008年宇都宮地裁は再鑑定を実施することなく再審請求を棄却しました。
足利事件において科警研によDNA鑑定の結果が示された1991年というのは,日本の警察捜査にDNA鑑定が本格的に導入されたばかりの時期でした。
当時のDNA鑑定で識別できる確率は830人に1人(10,000人に12人)ぐらいだったと言われています。当時のDNA鑑定は技術的にも不完全なものであり,DNA型を判定するものさしとなるマーカーに狂いがあったことを警察庁が認め,現在は使用中止にしているそうです。
当初DNA再鑑定を依頼されたとき押田教授は固辞したそうですが,弁護団から科警研鑑定の画像を見せられ,測定方法が精度が低いものであったうえに,読み間違いが起きそうな部分の画像が不鮮明だったことが分かり思い直したそうです。そこで押田教授は刑務所で服役している菅家さんの毛髪を郵送させ,鑑定しました。
科警研の鑑定結果を否定する押田鑑定が提出されたあとも,裁判所は科警研の鑑定結果を証拠として認め続けました。
その事情とは,刑事司法において一度くだされた判決は裁判所はそう簡単にくつがえすわけにはいかない事情である。その事情こそ,裁判所が科警研の鑑定結果を支持し続けたことの背景にあるものにほかならない。再審の壁がこうして高くなる,と萱野稔人氏は指摘しています。
以上,「死刑 その哲学的考察」(萱野稔人・ちくま新書)から,内容を一部引用しながら書き込みました。
死刑廃止論から死刑肯定論に転向した人減
ところが驚くことに,司法修習生時代は死刑廃止論者でした。教育刑を唱えた牧野英一博士のもとで住み込みで書生として仕えていたからでしょう。
土本氏は検察官になってから様々な犯罪を目にするようになって,教育刑など絵空事だと感じるようになり,世の中には死をもって償わせるしかない罪が存在すると思い,「(牧野)先生は死刑廃止運動をされたわけでもなく,死刑に特化した論文も書かなかった。刑罰は教育刑であるというならば,先生は死刑をどのように考えておられたのか,死刑を廃止するならばどのような代替刑がありえたのか。今できることなら先生の墓を掘り起こしてでも聞いてみたい」と師匠を痛烈に非難しました。
実務を通じて消極的な死刑廃止論者から積極的な死刑廃止論者となった団藤重光教授とは正反対です。
土本氏が検事として唯一死刑を求刑したのは,長谷川武死刑囚でした。長谷川武死刑囚は1966年に強盗殺人事件を起こしました。拘置所では,小説『宣告』のモデルとなったバー・メッカ殺人事件の正田昭死刑囚といっしょでした。
長谷川武死刑囚はおおむねおとなしく裁判に臨みましたが,判決訂正申立書のなかで,樋口和博裁判長が弁護士に対して「来年にもちこしても何ですから,どうでしょう,今年いっぱいに片付けてしまいましょう」と言ったことに,とてもいやな気持になったそうです。
長谷川武死刑囚の教誨師を務めた僧侶は,「死刑が殺生,人殺しであることは,これもまた間違いない事実でしょうな」と語りました。
死刑廃止論者は,土本氏のように死刑廃止論者から死刑積極的肯定論者に転向した人に対して説得・論破できる理論を用意しなければいけません。
凶悪殺人事件が発生すると私たちは当事者でもないのに,感情にとらわれ厳罰・死刑を望みます。被害者遺族が犯人に死刑ではなく一生刑務所で罪を償ってほしいと表明したところ,そのことを非難する人がたくさん現れました。被害者遺族のことなどどうでもよく,自分で裁きたいのです。何の責任を引き受けることなく。事件については,事件の発生と判決に興味があるだけで,あとは被害者遺族や加害者側のことなどこれっぽちも関心を持たなくなります。
宅間守死刑囚の兄,宮崎勤死刑囚の父,佐世保北高等学校殺人事件で事件を起こした女子生徒の父(弁護士)はいずれも自殺しました。
その家庭の問題かも知れませんが,犯罪の凶悪性を強調することによって加害者家族を追い詰め,自殺においやるような風潮はとても安全で平和な社会とは思えません。
久間三千年さんは無実のまま処刑されたのではないか。
1992年3月20日に福岡県警は久間三千年さんを参考人として取り調べ,任意提出された毛髪をつかって科警研はDNA鑑定を行ったところ,女児の遺体に残された血痕のDNA型と久間さんのそれがほぼ一致するという結果が出ました。
福岡県警が同じ試料を使って東京大学及び帝京大学に依頼したDNA再鑑定では,女児の遺体に残された血痕からは久間さんのDNA型は検出されなかったので,久間さんは逮捕されませんでした。
ところが福岡県警はあきらめませんでした。再鑑定でDNA型が検出されなかったのは試料の残量がわずかだったからだという理由でした。1992年9月に押収したワゴン車からは徹底的に捜査したにもかかわらず何も手掛かりは出てきませんでした。1993年の末頃,押収したワゴン車から微量の血痕や尿痕が突然発見され,科警研で鑑定したところ,女児の一人と血液型が一致するという結果が出て,さらに女児の衣服から発見された繊維片とワゴン車のシートに使われていた繊維の特徴が合致するという鑑定結果が出て,1994年9月23日に久間三千年さん(当時54歳)が死体遺棄の容疑で逮捕されてしまいました。
久間さんは町内会長を務めたこともあり,人望がありました。逮捕以来一貫して容疑を否認し,ポリグラフでも否認しました。
1999年9月29日,福岡地裁は久間さんに死刑判決,2001年10月10日福岡高裁は控訴棄却,2006年9月8日に最高裁は上告を棄却しました。この間久間さんは一貫して無実を主張していましたが,2008年10月28日に死刑執行がなされました。なお,足利事件の菅家利行さんは2009年6月4日に釈放されました。
足利事件と飯塚事件では,科警研によるDNA鑑定のメンバーも鑑定方法もほぼ同じでした。坂井活子(さかい いくこ)技官が証人として出廷し,どちらの事件でもDNA鑑定の正確さを主張しました。
DNA鑑定の権威と言われた石山昱夫(いしやま いくお)帝京大学教授は飯塚事件の第一審第27回公判で証言しました。科警研のDNA鑑定のひとつの(HLADQa法)について,久間さんのDNA型が検出されたとは思えないと証言,またもう一つの鑑定(MCT118法)について「鑑定方法がずさんで技術が低い。(私の教室なら)やり直しを命じたほどだ」と述べました。さらに「整合性がつかず,その理由を科警研に尋ねたが,いまだに回答がなく大変不満だ」と科警研を批判しました。
ほぼ同じ時期に,同じ鑑定方法で,ほぼ同じメンバーでDNA鑑定が行われ,「拙劣極まる」と批判されながら久間さんは死刑を執行され,菅家さんは無期懲役から身柄を釈放され冤罪であることが証明されました。
久間さんについては冤罪で処刑された可能性が極めて高いと思います。久間さんはさぞかし無念だったことでしょう。
虚偽の自白はヒューマンエラーではなく,公権力の執行上発生する構造的なものです。
物証も試料がきわめて少なく,正確さに万全でないことがありえます。当時の裁判官がDNA鑑定を過信したことがうかがえます。
石山教授は菅家さんが釈放された翌日,産経新聞に「このレベルでも,(飯塚事件)当時の警察の技官は『DNA分析が完成した』と宣伝し,裁判官も検察官も信じ込んでしまった。DNA鑑定という『証拠』があれば,それ以上に捜査する必要もないと信じこんでしまうだろうし,手抜きの判決が出ることもあるだろう」と寄稿しました。
表題の訂正です。
すみません。おわびします。
パキスタンで公開絞首刑決議を議会が採択
議会担当大臣が提出した決議案は過半数の賛成を得て採択されましたが,人権大臣と科学技術大臣は反対票を投じたそうです。
子どもの性的虐待・殺害というのは,きわめて卑劣な行為ですが,有罪と認定した者を公開で絞首刑にするというのは残酷にすぎます。冤罪の場合もあるかも知れません。
国民の前で絞首刑を執行するということは,ギロチンでの処刑を民衆が楽しんだときのフランスのように民衆の心がすさんでいきます。
このような決議が21世紀に起きるというのはたいへんに悲しいことです。
ガンビアに学ぶ
1994年に軍による無欠クーデタが起こり,英国へ亡命した初代大統領に代わり,ヤヤ・ジャメが政権を掌握しました。
ジャメ政権下では,政府批判をした人々が厳しく弾圧されました。行方不明になったジャーナリストや反体制派は数知れないと言われています。拘禁中の拷問,治安部隊による違法な殺害,国家情報局による脅迫やいやがらせが行われました。
2008年には演説でLGBTの人々に対して「国外に出ていかなければ喉を切り裂く」と放言しました。魔女や妖術師が国家に害を与えているとして,1,000人以上の女性が村々から連れ去られました。
ジャメは4期大統領を務めた後,2016年の大統領選挙に敗れましたが退陣を拒否し,任期切れ後も大統領職に居座り続けました。周辺諸国の介入や説得の結果,2017年1月に退陣を表明し,その夜のうちに赤道ギニアへ亡命しました。
人権尊重を掲げて当選したアダマ・バロウ新大統領は,2019年1月にジャメ政権下での人権侵害を調査する委員会を設置しました、アムネスティに対し,調査結果に基ずき加害者を必ず裁くと約束しました。2018年には死刑執行停止を宣言し,死刑廃止条約も批准しました。2019年5月には死刑囚を終身刑に減刑しました。
デモ隊への実力行使や不当な逮捕・拘禁はまだなくなっていないと言われていますが,日本が進むべき方向を示しているように思います。ガンビアから学ぶことがあるのではないでしょうか。
僕の父は母を殺した(2)
そこには,「父さんの死刑を願う母さんの親類」と「父さんの死刑を食い止めたい僕」がいました。
数か月後,言い渡された判決は,「被告人を極刑に処する」でした。
母方の親戚は死刑判決に拍手を送りました。
2011年6月7日,最高裁は上告を棄却し,死刑判決が確定しました。大山清隆死刑囚は広島拘置所に拘置されました。
大山寛人さんが母親である大山博美さんあてた手紙を紹介します。
母さんへ
母さんを殺した父さんの死刑を望まない僕を,母さんはどんなふうに思っていますか?
それを母さんの口から聞くことは,もうできません。
きっと母さんは、父さんをかばう僕を見て,悲しんでいるのではないかと思っています。
僕は,父さんを許したわけではありませんし,これからも許すことはできません。
もし,父さんが死刑になることで母さんが生き返るのなら,僕は父の死刑を望んだでしょう。
しかし,それは叶わぬ願いです。
父さんは心から反省し,毎日のように後悔し続けています。
その思いが,ひしひしと伝わってきました。
父さんが死刑になったとしても,何も変わらない。
だからこそ,これからも生き続け、反省し続けて欲しいと思っていました。
どんな残酷なことをした人でも,僕にとってはたった一人の父親です。
僕はもう何も失いたくなかった。
母さんを裏切るようなことをして,ごめんなさい。
あの最後の叫びに気ずけず,助けてあげられなくてごめんなさい。
僕が母さんにできた親孝行といえば,あのハンカチをプレゼントしたくらいです。
もっと親孝行したかった。
卒業式も見せてあげたかったし,成長していく僕を,そばで見守って欲しかった。
いつもいつも心配ばかりかけて,何もしてあげられなくてごめんなさい。
母さんのことを思うと,胸が締めつけられ,涙が溢れます。
これまで,非行や荒れた生活,自殺未遂など,色々心配をかけてしまったけど,もう大丈夫です。
これからは,どんなに辛い現実も受け入れ,しっかりと生きていきます。
だから,もう何も心配せず,安らかに眠ってください。
数えきれないほど苦悩はあったけれど,今僕は幸せです。
僕を産んでくれて,ありがとうございました。
十二年間,誰よりも深く愛情を注いでくれて,ありがとうございました。
世界中の誰よりも,母さんを愛しています。
寛人より
以上,「僕の父は母を殺した」(大山寛人・朝日新聞出版)から引用しました。
また,「おわりに」の中で,大山寛人さんが書いていたことを一部引用します。
母を殺した父の死刑回避を願う僕に,共感することは難しいかもしれません。
被害者やその家族は,加害者に対して厳罰を望むのが普通です。父の事件においても,僕以外の遺族の大半が,死刑を望みました。
しかし,僕のように死刑を望まないケースは少なからず存在しています。加害者の死刑が,被害者遺族に新たな傷を負わせてしまうこともあるのです。
こんなにも辛い思いをするのは,僕が最後でいい。
第二の大山寛人を生みだしてはならない。
こんなふうに言うと,綺麗事のように思われるかもしれません。でも,僕は心の底からそう願っています。
死刑囚から牧師へ
1944年6月15日,米軍がサイパン島に上陸すると三郎少年は日本軍に合流し,出会った土屋学伍長に心酔しました。のちに彼が陸軍中野学校の憲兵だったことを知ります。
土屋は少年に,おまえは先に捕虜になり,後から民間人に偽装して投降する私の身元保証人になれ,と命令しました。その目的は敵情視察に加え,収容所内に愛国集団を組織し,「大和魂を喪失したアメリカかぶれの非国民,国賊」すなわち負け組のテロにあると言いました。
土屋はあらかじめ売国奴のブラックリストを作成していて,4人が暗殺対象になりました。手始めにY(日本軍下士官)を消すと言いました。米軍作業班の班長という立場から日本軍の機密を漏らす売国奴ということでした。
土屋が言う軍機密など,敗残兵集団にはありませんでした。その決行日が1945年9月20日で敗戦から1ヶ月以上過ぎていたからです。
三郎少年は「男は国賊だ,殺すことは天皇陛下のためだ,祖国のためだ。責務だ」と確認しつつ,Yにとびかかり短剣で2回刺して殺害しました。
Yといっしょにいた女の通報により軍の捜索が開始され,無実の男が矢継ぎ早に逮捕され,拷問を受けました。三郎少年は土屋とともに脱走しました。
山中で捕虜の日本兵がきて敗戦を伝え,山を降りるよう説得しました。この捕虜を「生かしておけない人間だ,サブ,君は経験者だからまたやってもらう。今度は拳銃でやれ」と命令し,三郎少年は実行しました。
土屋ら敗残兵が終戦を認めて投降したのは1945年12月1日でした。
土屋は「お互いがやったことを白状すれば間違いなく死刑だ。だが俺が殺人を命令したとは言うな。独断だと自白しろ」と言いました。三郎少年は現地人刑事,アメリカ検察から執拗に尋問されましたが土屋との約束を守りました。
1946年3月に軍事裁判が三郎少年に死刑判決を下したとき,民間人に偽装した土屋は祖国日本を目指す帰国船の中にいました。
三郎少年は刑場があるグアムへ送られました。日本人教誨師が最後の説教に来ました。三郎少年は全身震えがとまらず立っているのがやっとでした。「あなたのお名前は」と聞かれ,「あら,あら,あら。あらかきさぶろう」とどもって答えました。「あ,まちがえた」と軽く教誨師が言い,少年はへなへなと崩れ落ちました。
三郎少年は長い煩悶の時をへて洗礼を受けました。大統領特赦により釈放され,「神様,あなたに私は一生従います」と誓いを立てました。
土屋の帰還から9年,27歳となった新垣さんは神学校に学びながら土屋を探しました。実は憲兵であり、本名は「加賀」で東京に住所があることが分かりました。
「土屋さん!」新垣さんへの仕打ちを思い出したのか,加賀は真っ青になって震え上がりました。
「私はあなたを許します。このことを伝えにきました」と言う新垣さんの言葉に,恐怖に歪んだ加賀の顔に疑念がわいたものの,ほっとした表情に変わりました。
新垣牧師は言いました。「私が許したのではありません。私の中に宿るキリストの力によって,許すことができたのです。だからキリストがいなければ許すことはできないわけです」と。
奥さんが補足しました。「主人は許していません。けれども救い主イエスが許された。主人は主イエスに従うと約束しました」と。
なんと卑劣な憲兵なのでしょうか。
他人に罪を背負いこませ,自分は自らの手をよごさずに逃げる,これが典型的な憲兵の姿だったのかも知れません。
僕の父は母を殺した(3)
ところが携帯電話が鳴り,「寛人君か? おまえの父親は大山清隆か。今すぐ娘と別れなさい」と彼女の父親から言われました。
大山寛人さんは彼女に別れを切り出しました。「なんでなん?悪いところがあるなら直すから。お願いだから・・・・」と彼女は別れたくないと泣きました。
大山寛人さんは,数日後彼女に一方的に別れを告げ、彼女の前から消えました。
大山寛人さんはホームページを立ち上げました。取材をしたいという記者からの電話をうけ,早稲田大学で死刑についての講演をすることになりました。
被害者家族が望まない加害者の死刑もあるという事実を,少しでも多くの人に伝えたいという思いでした。
お母さんが殺される直前,寛人さんの名前を叫んだという場面を語るときは涙が出そうになりましたが,必死にこらえました。学生の中には泣いている人もいました。講演終了後,最前列で涙を流しながら話を聞いていた女性から声をかけられ,「貴重な経験を聞かせていただき,ありがとうございました。すごく勉強になりましたし,考えさせられました」とまた泣きだしそうになったそうです。
その後も死刑制度をテーマとする講演を行いました。講演前に司会者が参加者に死刑制度に賛成か反対か聞いたところ,20人ほどのうちの半数以上が「賛成」でした。しかし,大山寛人さんの講演が終わった後は,半数以上が反対になり,答えが逆転しました。
これは興味深いことだと思います。死刑事件に関して当事者の話を直接聞くことによって,死刑「賛成」から「反対」へ変わる可能性がある(実際に変わった)ということです。
なお,大山寛人さんは死刑制度には反対しているわけではないと語っています。
愛知県弁護士会の「死刑廃止を考える日 シンポジウム」では死刑事件の被害者遺族である原田正治さんとともにパネルディスカッションに参加しました。原田さんは1983年に京都府で弟を保険金目的で殺害されました。様々な葛藤の末に加害者は生きて罪を償ってほしいと思うようになりましたが,2001年に死刑が執行されました。
立場は違うものの,大山寛人さんは原田正治さんの思いがどこか共通するものがあるように感じたそうです。
地下鉄サリン事件から25年
つい最近,地下鉄サリン事件で被害に遭った方が25年間寝たきりの状態であったまま,亡くなられたということを聞きました。
「オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩 すべての罪は我にあり」(門田隆将)と「オウムと私」(林郁夫)を読み比べてみました。
門田隆将氏の井上嘉浩死刑囚への思い入れが強いのか,同死刑囚は地下鉄サリン事件では連絡調整役や後方支援を行ったにすぎないこと,いかなる殺人行為にも逃げ回って直接の加害行為を行わなかったという主張には違和感を考えました。
ポツリヌス菌をアタッシュケースで拡散することが失敗に終わったとき,リムジンの謀議の中で「ポツリヌス菌ではなくサリンだったらよかったのではないでしょうか」と提案し,これを受けて村井邦雄が「地下鉄でサリンをまくのはどうですか」と発言しました。井上死刑囚の「サリン」発言が地下鉄サリン事件の発生に因果関係があるのです。
直接殺害の加害行為を行わなかったとのことですが,落田耕太郎さんの殺害現場では落田さんの足を押さえつけて殺害を容易にしました。
刑法では共謀共同正犯という考えがあって,共謀した者は実際に加害行為を犯した者と同様に正犯として処罰するという考えがあります。
井上死刑囚が,ことさら他のオウム事件の殺人犯より軽い刑罰とすべきだったということにはなりません。
林郁夫懲役囚は,若いころは首相などの閣僚が靖国神社を参拝しないことに強い憤りをもっていました。日本軍が中国では強盗・強姦・殺害ばかり行っていたこと,満州では民間人を残して関東軍が先に逃げたこと,サイパンや沖縄では民間人に自決を強要し,ときには殺害も行ったこと,A級戦犯が靖国神社で祭られていることの認識がありません。なによりも日本兵のために口では表すことができないほどの被害を被ったアジアの人々に対する思いがまったくなかったようで
す。このような薄っぺらな歴史認識が地下鉄サリン事件で地下鉄職員2名の方の命を奪いました。
林死刑囚が直接2名の方の命を奪いながらも無期懲役となったことは,他の加害者も無期懲役にしてもよかったのではないかと思います。被害者の方々の怒りは当然ですが,オウム真理教がなぜ若い人々をひきつけ,凶悪な犯罪集団に至ったかという十分な研究はなされていないのではないででしょうか。
林死刑囚はサリンのために25年間寝たきりで亡くなった人及びその遺族の苦しみを背負い,刑務所において一生謝罪を続ける人生を送ってほしいと思います。
トマス・モア処刑前の祈り
彼が処刑1週間目前にしるした祈りを紹介します。
よき主よ,わたしにお与えください
栄光の神,
恵みによって,わたしの生涯を正し,
死を恐れることなく,
自分の終わりを見つめることができるよう,お助けください。
あなたのうちに死を迎える者にとって,
よき主よ,それは豊かな命の門であります。
よき主よ,わたしにお与えください
謙虚でへりくだり,静かで平安な心を,
忍耐と慈悲に富み,優しく,思いやりと慈しみに深い心を,
わたしのすべての仕事,すべての言葉,すべての思いにおいて,
そのようにして,あなたの聖なる祝福に満ちた霊に,
いささかでもあずかることができますように。
よき主よ,わたしにお与えください
まったき信仰,たしかな希望,燃える慈しみ,
そして,自分を愛するよりもはるかにあなたを慕う愛を。
よき主よ,わたしにお与えください
あなたとともにありたいという憧れの思いを,
この世の苦悩から逃れるためではなく,
天国の喜びを手にするためでさえなく,
ただ,あなたに対する愛ゆえに。
そして,よき主よ,わたしにお与えください
あなたの愛と恵みを。
あなたへのわたしの愛がいかに大きくても,
あなたの大いなるよさに,わたしはふさわしくはありません。
これらのことを,よき主よ,わたしは祈り求めます。
あなたの恵みをわたしに満たし,
これらのものをわたしが切に求めることができるよう,
助けてください。アーメン
私は,処刑を前にしたトマス・モアが決して平静ではいられなかった,死を迎えるにあたってに信仰告白をし,神に懸命に救いを求めたと,この祈りを解釈しています。
米コロラド州が死刑廃止に
死刑廃止は世界的潮流であるとの主張は死刑廃止の決定的な理由にはなりえませんが,死刑存置国は日本を含めて人権を軽視している国が多いと言えると思います。
サウジアラビアが18歳未満の死刑執行廃止
あのサウジアラビアがと驚いてしまいますが,とにかく小さな第一歩だと思います。
そういえば,日本には人権委員会を設置しようという声は起きないんですね。
免田栄さんを支えた死刑囚たち
免田さんは木材伐採の仕事を探していたのでナタを持っていました。現場の状況からすれば,犯人は大量の返り血をあびていたことになります。
警察が証拠品として押収した免田さんのナタと着衣には返り血どころか血痕もありませんでした。証拠品が無実を証明する。だから検察はこれらの証拠品を警察が紛失したとして提出しませんでした。
裁判官は物証なしで死刑判決を下したわけです。地裁支部だけでなく,高裁,最高裁もそれを承認しました。
検察は無実と分かっていながら免田さんを犯人として起訴し,裁判所は検察が主張するままに死刑判決を下したというのは,日本の司法はたいへんに程度が低いのではないかと思います。
免田さんは死刑判決が確定した最高裁の上告棄却から半年後には自らの手で再審請求を行いました。1979年9月27日の再審開始決定まで,本人だけで行ったものも含めて十数回に及びました。しかも棄却されるたびに新しい証拠をつけ直さなければ次の請求ができないわけですから、免田さんの精神力の強さには驚かされます。
1956年8月に再審開始決定がありました。しかし検察の即時抗告によって1959年4月,高裁は再審請求を棄却しました。このときのエピソードを免田さんは語りました。
「夕方,再審開始決定書が届いたのです。翌朝私が掃除にでたら,隣の死刑囚が,『免田,何かきたろ?』といって,机のうえにあった決定書を読んだのです。『おお!これは』と大声をだしたから,みんなでてきて『よかった,よかった』と口々にいって,40人くらいいましたかね。みんなで胴上げしてくれました。それまでは人を殺した死刑囚が怖かったし,自分と同じようには思いたくなかった。だから距離を置いていたんですけど・・・人はみんな同じだと,人間に変わりないと思いました」
免田さんは,この日から死刑囚たちと対等に付き合うようになりました。周囲の人間と心を許しあうことで精神の安定がはかられ,くじけそうな心は花壇づくりと点訳のボランティアをさせてもらったのでもちこたえられた,と話しました。
永山則夫死刑囚の死刑執行はすさまじいものだったそうです。殺されてなるものか!と激しく抵抗する永山死刑囚を数と力で押さえつけ,死刑場にかつぎこんで刑務官たちは首にロープをかけました。格闘は約1時間に及びました。
本来ならば遠藤誠弁護士には遺体をそのまま引き渡すべきだったのですが,拘置所は撲殺されたような遺体を外に出すわけにはいかないと,火葬し遺骨を引き渡しました。
戦後3人目の女子死刑囚である日高信子死刑囚の死刑執行は痛ましいものであり,立ち会った女性刑務官は辞職したとのことです。
最新の死刑統計(2019)について
2019年,世界で657件の死刑執行が確認された。前年690件から5%の減少で,2年連続で過去10年間,最も少ない数値となった。この数値には,これまでと同様に死刑情報を国家機密扱いとする中国の数千件ともいわれる処刑数は含まれていない。
国別では,前年より執行数が大幅に減ったのは,エジプト(43件→32件),日本(15件→3件)、シンガポール(13件→4件)だった。反対に執行数が大幅に増えたのは,イラク(52件→100件),サウジアラビア(149件→184件),南スーダン(7件→11件),イエメン(4件→7件)だった。
イラン,サウジアラビア,イラクの3ヶ国が,2019年に確認された世界の執行件数の81%を占める。サウジアラビアの死刑執行数184件は,アムネスティがこれまで同国で確認した年間件数で最多だった。イランでは,2019年も死刑執行数が減少(253件→251件)している。歴史的に見ても低い水準にある背景には,
2017年に改正された麻薬取締法が機能していることがある。とはいえ,イランは,いまだ世界の死刑執行件数の38%を占める死刑大国に変わりはなかった。
2019年は死刑を廃止した国は一つもなかったが,死刑制度の存置に積極的な姿勢がうかがえる国が複数あった。米国では,ニューハンプシャー州が死刑を廃止した21番目の州となり,全米で最多の死刑囚がいるカリフォルニア州は死刑執行を停止した。カザフスタン,ロシア,タジキスタン,マレーシア,ガンビアは死刑執行の停止状態を維持,バルバドスは絶対的法定刑としての死刑を憲法から削除した。中央アフリカ共和国,赤道ギニア,ガンビア,カザフスタン,ケニア,ジンバブエでも死刑廃止に向けた動きがあった。
日本では死刑執行は3件あり,2008年以降最多であった前年の15件から大幅に減少した。日本人男性2名が8月2日に,中国籍の男性1名が12月26日に,それぞれ処刑された。弁護人によると,中国籍の男性は再審を請求していた。死刑に直面する者の権利を保障する国際上の保護措置に反し,日本は3年連続で再審請求中の死刑確定者に死刑を執行した。
年度末時点での死刑確定者数は,死刑判決を受けている121人中112人となった。死刑確定者121名のうちの一人である袴田巌は,2014年に釈放されたが,死刑判決は維持されたままだった。
精神。知的障がい者数人に対する死刑判決も維持されたが,彼らに対する死刑は,国際法・国際基準に違反しており,重大な懸念がある。
「死んでお詫びをする」ことは日本の伝統なのか
日本の場合,「死んでお詫びをする」ということが一つの伝統になっているように思う。悪いやつを殺すのではなく,犯人が反省して,死んでお詫びするという心境になり,既に「仏さん」になった状態で,死ぬことを手助けしてあげるイメージがあるように思う。
・・・それよりも重要であるのは,たとえばフランスにおいて,逮捕時に犯人が警察官によって多数射殺されていることである。正当防衛だから問題ないと抗弁されるが,これは無視し得ない。犯人でない市民が人違いで射殺されることが問題化しているぐらいであるから,かなり容易に銃撃しているようである。車で逃げ去るアラブ系青年をピストルで首を討ちぬいて射殺し暴動に発展した事例もある。
刑務所内での,受刑者の死亡事件,第三世界では軍や機動隊によるデモ鎮圧などを含めて,国家権力による市民の殺害として人数を数えれば,日本ほど少数の国はない。EU諸国の死刑廃止は,本物ではない。
アムネスティなどが発する,日本が欧米諸国よりも遅れた国であることを前提にしているかのような発言に,私は,強いエノセントリズムを感じてしまう。犯罪対策において,けた違いに成功している日本や韓国から学ぼうという態度が,欧米諸国の人間に欠けていることは残念である。
「死んでお詫びをする」のは日本の伝統であるという言い方は,まさに森山真弓法相が批判された「死刑は日本の文化なので,欧米諸国は口をはさむな」という相対主義に基ずくものです。
この教授には,ローマ教皇が発言した「死刑は人間の尊厳に対する冒とくである」という考え方を全く相手にしないのだと思います。きわめて人権感覚のない
教授のように思えます。この本は一度読んだので捨てます。
北朝鮮人権白書2020
白書は「注目する点はこの何年かで薬物取引と韓国の録画物の視聴・流布行為に対する死刑の事例が増加しているという事実」とし,これら行為が共和国の全域に拡大したことで,取り締まりが強化されたためとの見方を示しました。
これまでよりも公開処刑の頻度が減っており,公開処刑の現場に住民が動員されるケースも減っていると把握された」と説明しました。
ただ,公開処刑が秘密裏に行われている可能性もあり,実際に効果処刑の回数が減少しているかどうかについては明らかではないと説明しました。
白書はまた,収容所などの施設内での暴行や虐待などが減少したとする証言も収集されたとし、「施設内の栄養・衛生・医療状況も一部改善されていると把握された」と説明しました。さらに裁判で私選弁護人の助力を得た例や,違法な家宅捜索に対して異議を申し立てて抗議するなどの事例もたびたび捉えられているそうです。
公開処刑が秘密裏に行われているならば,「公開」と言えるのかどうかその表現にちょっと疑問があります。
うわさには聞いていましたが,韓国の映画やテレビドラマを視聴したり複製物を所持していると処刑されるというのは本当なのですね。
シンガポールでZoomによる死刑宣告
アムネスティ・インターナショナルは「Zoomだろうが体面だろうが,死刑は残酷で非人道的。コロナで世界が人の命を守ることに集中しているときの死刑など,とんでもない」と反発しています。
まったくそのとおりだと思います。
ヘロインの違法取引で死刑というのは,罪刑が均衡しません。
シンガポールの死刑執行数は2018年の13件から2019年は4件に減少しています。
また死刑執行数を増大させようというのか,とんでもないことだと思います。
北朝鮮人権白書2020(続)
辺見庸氏の考える「死刑と戦争」
「愛と痛み 死刑をめぐって」(辺見庸・毎日新聞社)から一部引用します。
死刑は地方自治体や中央裁判所が執行するものではありません。私はこう考えます。死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは,自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです。私たちがその権利を黙契によって国家にあたえる。これが死刑なのではないでしょうか。
これを敷衍して考えてゆくと,他国民にも死刑を拡大していくのが戦争という
ものではないか。戦争とは大規模な死刑執行のことではないか。したがって死刑と戦争は通底すると考えざるをえない。
アフガンで無差別殺略をおこなったのは死刑廃止国のイギリスの飛行機でした。死刑廃止国の兵隊たちが国権の発動たる戦争のなかで殺人をおかしているのです。じつはこれはEUの精神と矛盾するようで矛盾していない。つまりEUは,死刑が本質的に戦争と似ているという私のような考えはとっていない。私はここにEUの欺瞞や狡猾さがあると考えます。
日本には憲法第9条があります。憲法第9条は戦後の遺産のなかで秀逸なものだ
と思っています。「戦争の放棄,戦力の不保持,交戦権の否認」これは究極的には死刑という国権の発動をも否定しているのではないでしょうか。私はそう思いたいのです。そう考えるべきだとも思っています。いま,第9条は危機に瀕していますが,第9条を死守することは死刑制度の廃止,死刑執行の即時停止につながるのでなければならない。私はそう考えます。
第9条には国権の発動たる戦争を永久に放棄すると書いてある。第9条にはある種,国家の否定のようなふくみがある。だからこそ,私のような法を無視する人間であっても第9条には耳を傾けざるをえないのです。国権の発動たる戦争をやめると明文化しているのであれば,当然,死刑を廃止するべきだと私は思うのです。
国権の発動たる戦争と死刑を永久に放棄する。それが第9条の本質的な精神であるべきではないでしょうか。
以上で引用終わり。
国権の発動が外に向かうのが戦争であり,内に向かうのが死刑であるということなのでしょう。
とても分かりやすいと思います。
苦悩する裁判官(2)
2007年2月の報道ステーションで熊本さんは告白しました。
事件の公判途中から一貫して無罪の心証を持ち続けていたこと。合議の場で他の裁判官と意見が割れ,2対1で自分が敗れたこと。取り決めに従って死刑判決文は自分が書いたこと。その後まもなく,責任を感じて裁判官の職を辞したこと。今後は再審開始に向け尽力したいことなどを語りました。
「自分の子どもや親の顔を思い出さない日はあっても,彼が手錠を外されて被告人席に来たときの顔・・・そして判決言い渡しの日のガクンとしたときの顔は・・・1日たりとも決して忘れたことはありません」「もし彼に会えることがあったら・・・目の前で・・15分なら15分・・・ただ泣いているしかないと思います」
熊本さんの告白は海外メディアで大きく取り上げられました。ロサンゼルスタイムズは「無実の人を自白に追い込む日本」と見出しを打ち,日本の人権意識の低さと司法制度の実態を糾弾しました。ほかにもフィガロ,ザ・タイムズなども
良心的な判事として絶賛しました。
「袴田巌さんを救う会」の門間幸枝さんは「先生は,日本の人権はプラトニックライツで,ヒューマンライツじゃないとおっしゃるんですね。つまり,個人的,利己的な人権はあっても,人間の存在そのものに関する意識が非常に低いと、全く同感です。人権に関して言えば,日本は発展途上国じゃなくて,発展後進国ですよ」と語りました。
また「ドイツのTVの記者が言ってました。熊本さんのような裁判官は,世界中を見回してもいない,それほど評価すべきなんだと。対して,日本のマスコミからは,なぜもっと早く告白しなかったのか,なぜ今ごろになってとか,守秘義務を破ったことに対してとか,突き放したような質問が出ました。私は頭にきましたね。何をくだらないことを言ってるんですか。私たち,支援者からしたら,先生,今まで生きていてくれてありがとうございました,という感謝の気持ちでいっぱいです」とも語りました。
熊本さんは高校卒業後医学部に進学するはずだったところ,寸前で考えを変え,九州大学法学部に進み,在学中に司法試験にはトップで合格したそうです。
判事補として最初に赴任した東京地方裁判所の3年間で4回死刑判決に関わり,そのすべての死刑囚と東京拘置所で面会を行っています。
「裁判官を辞めた後、弁護士になったんだけど・・・なんというか,自責の念を通り越して、もはや生きてても仕方がないというのかねぇ。酒は浴びるほど飲んだよ。でも,何の解決にもならなかったです」
死に場所を探し,日本各地をさまよい,ノルウェーのフィヨルドにも足を運んだものの死ぬことはできませんでした。
後に付き添いをするようになる島内和子さんが熊本さんに出会ったころは,熊本さんはホームレス同然の生活を送っていたそうです。
熊本さんは事件のことを家族に話しませんでした。長女が高校1年生のときに2人でヨーロッパ旅行に行きました。熊本さんは今まで黙ってきた過去を洗いざらい打ち明けました。
「お父さんは昔,裁判官をやっていて,心に背く死刑判決文を書いた。死刑を言い渡した彼は,今も冤罪を訴えている。お父さんが早く死んで,もしそのとき事件が良い方向に解決していなかったら,おまえはその後も人殺しの娘として生きていかなければならない。これは一生,ついて回る。だから,おまえが将来就職することがあっても,法律関係,その周辺の仕事だけは絶対に選んではいけない・・・」
娘は唖然とし,その後,一切話題には触れなくなったそうです。
以上,「『美談の男』尾形誠規・鉄人社」から引用しました。
Re: 苦悩する裁判官(2)
熊本典道元裁判官のことは何度か取り上げました。ここにもそのうち3つをセルフメモしておきます。熊本さんの残したブログはまだありますね。
熊本典道・元裁判官のブログ「裁判官の良心」
2007/06/13 20:00
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-260.html
袴田巌死刑囚の再審だけではなく、冤罪を作った者たちと国に責任を取らせることが必要。
2014/04/30 16:00
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-5560.html
冤罪を生む構造が警察・司法制度にあるとしたら
2007/08/30 13:00
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-384.html
心に背く殺人をさせる構造を内包するのが日本の司法なのだと改めて思います。
苦悩する裁判官(2)続
教えていただいたブログ「裁判官の良心」は,最初の結婚で生まれた長男が勧め,立ち上げまでの作業をすべてこなしたそうです。
二度目の結婚で生まれた長女とヨーロッパ旅行に行き,「お父さんは昔裁判官だった。おまえは人殺しの娘なんだ」と言われたのは,長女によると「あれはたぶん父の作りはなしですね。単にベルサイユ宮殿が見たかっただけで,就職の相談なんかいっさいしていません。高校1年のときでしたから」と言ったそうです。また父が元裁判官だったことを知ったのは,ずっと後に報道ステーションを見たときだったそうです。
本(美談の男)を読み進めていくうちに分かりました。前回の投降内容は一部訂正しなくてはいけません。
それにしても袴田さんはひどい扱いを受けたものです。逮捕・勾留された1966年8月18日から9月9日まで,1日も休まずに平均12時間以上の取調がなされています。
自白調書45通のうち44通が証拠能力なしとされ,採用されたのは検事が取り調べた1通だけでした。判決文によると,「警察官が立ち会っていない」「警察と検察は違うから,警察に述べたことにこだわらなくていいと告げた」ことで証拠能力を認めたそうです。
警察は66年7月4日の家宅捜索で工場内を徹底的に調べたはずなのに,事件から1年2月後の公判中に5点の衣類が入った麻袋が突然見つかったなど,捏造が強く疑われます。
また凶器とされたクリ刀は小さなものでとても遺体50ヶ所以上突き刺したものとは思えない,先端がわずかに欠けている程度だったそうです。
このように自白も物的証拠も有罪を認定するには極めて合理性がないのに,有罪とし死刑を宣告したなど,とても信じられません。
河井克行前法相
彼は筋金入りの死刑存置論者。
死刑存置論者は概して自分に甘くて他人に厳しい。
法相就任時には「法の規定に従い厳正に対処する」と死刑執行への意欲を積極的に語っていました。
金で票を買うような男が法相になり死刑執行命令を出す。
そんな不条理があっていいはずはありません。
この一事でも死刑制度は廃止すべきです。
金子文子の獄中歌
大杉の自伝を読んで憶(おも)ひ出す幼き頃の性のざれ事
ブルヂュアの庭につつじの咲いて居りプロレタリアの血の色をして
浴(ゆあ)みする女囚の乳のふくらみに瞳そらしぬなやましきさ覚えて
真白なる朝鮮服を身に着けて醜き心をみつむる淋しさ
我が霊よ不滅なれど希(ねが)ふかな閉し込められの獄に居る身は
さりながら我が霊滅び人の世の醜と手を切る其れもまた好し
ギロチンに斃れし友の魂か庭のつつじの赤きまなざし
亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ思ひ出深し九月一日
我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時
花は散る花は散れどもギロチンに散りて花咲く××者かな
夏の夜をそぞろに集ふ若人の群れを思へば我も行きたし
人力車梶棒握る老車夫の喘(あえ)ぎも険し夏の坂道
資本主義甘く血を吸ふかうもりに首つかまれし労働者かな
同志てふ言葉を他処(よそ)に権力の腕に抱かれ友は逝きけり
ダイナマイト投ぐる真剣さもち床の上に彼はぶちまけぬ冷えし紅茶を
訂正があります。
お詫びして訂正します。
裁判関係の書類(東京地方裁判所第3回被告人尋問調書)を読むと,金子文子は九津見房子を嫌っていることが分かり,意外な感じがしました。
いわく,九津見房子は少しも子どもの面倒をみずに若い男と終日出回っていた,名前を売るために過激な演説をする「主義者」の売名売りに嫌になった,冬が迫り必要となることが分かっていながら米代金に窮して私の着物を無断で質入れして流してしまった,自分の口を肥やすために他人の防寒を思わぬ「主義者」としてその態度を憎む,とありました。
また本名は「文子(ムンジャ)」なのに,判事にあてた書状などにはときどき「婦美」と書いてあった理由が分かりませんでした。
カトリック正平協「死刑廃止を求める部会」が上川法相に要請
その内容は次のとおりです。
私たち日本カトリック正義と平和協議会「死刑廃止を求める部会」は,先月発足した菅義偉内閣において,第104代法務大臣に就任された上川陽子衆議院議員に対し,大臣就任のお慶びを申し上げるとともに,本日10月10日の第18回「世界死刑廃止デー」にあたり,今回の法相在任中の死刑の執行を再び命じることがないように要請いたします。
国際的な人権状況に大変詳しく,「持続可能な開発目標」の推進に精力的に取り組まれているあなたに改めて申し上げるまでもありませんが,世界の多くの国々では人道的観点からすでに用いられなくなっている死刑を未だ毎年のように実施している日本に対し,国際社会からはたびたび強い非難が向けられています。また,現代のカトリック教会は福音の光のもとに,死刑は許容できない刑罰であることをはっきりと教えています。2018年に改訂された『カトリック教会のカテキズム』でも,先週発表されたばかりの教皇フランシスコの最新の回勅
『Fratelli Tutti』でも,全世界で死刑を廃止するためにカトリック教会を挙げて取り組む決意が明確に示されています。私たちも全世界のカトリック教会と声を合わせ,そしてすべての善意ある人々とともに,日本政府に対して死刑廃止を求め続けてきました。
にもかかわらず,9月17日の法務省発登庁後の記者会見において,死刑廃止について「現在のところ適切ではない」とあなたが答えたことを,私たちはとても憂慮しています。適切ではないどころか遅すぎるくらいですが,今からでもまだ間に合います。幸いにも2020年は現在のところ,1件の処刑も実施されていません。どうか今この瞬間から,死刑廃止に向けた国民的議論を呼びかけてください。来年3月に延期開催される国連犯罪防止刑事司法会議開催国の法務大臣として,必ずやその決断が世界から称賛されることでしょう。
政治家や法務大臣である以前に一人の人間として,あなたの良心の声に今一度,鏡を磨いて耳を傾けてください。あなたに与えられた豊かな能力,そして法務大臣としての強い権限は,人を殺すためではなく人を生かすために,「すべてのいのちを守るため」に使ってください。昨年11月に来日した教皇フランシスコが首相官邸にて語った「結局のところ,各国,各民族の文明というものは,その経済力ではなく,困窮する人にどれだけ心を砕いているか,そして,いのちを生み,守る力があるかによって測られるのです」という言葉を,相次ぐ自然災害を前に,そしてこの未曽有のコロナ禍にあって,再び思い起こしてください。
あなたがこれまで発した死刑執行命令によって命を奪われた16名のために,私たちは祈ります。今なお悲嘆のうちにある人々のために,私たちは祈ります。
あなたに命じられて直接の殺害行為に従事させられた多くの人々のためにも祈ります。そして何より,あなたのために,私たちはいつくしみ深い神に祈り続けます。あなたが法務大臣としての職務を全うすることができますように。
2020年10月10日
日本カトリック正義と平和協議会死刑廃止を求める部会
部会長 ホアン・マシア神父
上川陽子はオウム真理教死刑囚の処刑前に赤坂自民亭ではしゃぎ,上機嫌でした。ホアン・マシア神父が言うように,法相としての強い権限は人を殺すためではなく人を生かすために使ってほしいと思います。したがって法相在任中は死刑の執行停止をすべきです。
残念だが,あんたの兄さんは逃がした。だが,あんたを逃がしはしない。
1943年,洋裁店の顧客の一人でファシズムに夢中になっている将校の妻に向かって,エルフリーデはファシズムに反対する発言を行い,ヒトラーの頭を弾丸で撃ち抜きたいと言いました。大尉の妻は夫にエルフリーデを密告させました。
判決について
ドイツ民族の名における判決。
エルフリーデ・ショルツ(旧姓レマルク)被告は,一兵士夫人に対して数か月に及ぶ,極度に煽動的かつ敗北主義的な言説によって,大胆にも以下のことを表明した。
総統の頭を銃で撃ち抜くつもりであること,わが国の兵士たちは屠殺用の家畜になり果て,その責任は総統にあること,また前線の兵士に対しては妻たちが爆撃されて死ぬことを,勝利を確信する女性たちには夫が戦死するのを願っている,と触れまわったことである。
わが国の戦士に敵対する破廉恥かつ狂信的な破壊宣伝行為によって,被告は永久に市民権を失い,死刑に処せられる。
判決理由
正確に表現するならば被告は,自らのドイツ民族としての血に対する,ドイツの戦線に対する,ドイツ民族の生命に対する,恥知らずな裏切り者であり,戦争敵対者たちの敗戦思想を煽動する宣伝屋である(戦時特別刑法第5条及び刑法第91条b)。名誉をもたない被告に対しては,われわれが自己放棄するのでなければ,ただ一つの刑罰しかありえない。死刑に処す。
フライスラー博士 シュルツェ=ヴェッケルト博士
判決を言い渡す際,ローラント・フライスラーは冷酷に言い放ちました。
残念だが,あんたの兄さんは逃がした。だが,あんたを逃がしはしない。
帝国最高裁検事総長は1943年12月13日に民族裁判所長官かつ参事官と民族裁判所司法出版部長官に「本日11時より刑の執行を許可する」旨を伝えました。
彼女は1時4分に連れて行かれ,3人の補佐人の立ち会いのもと,死刑執行人により断頭台で斬首されました。
1968年12月11日オスナブリュック市議会は,25年目の命日に通りに名を残すことによって,エルフリーデ・ショルツの名誉を回復しました。兄レマルクはローマから「寛大で気高いご配慮に,深く感動しています。皆々様方に心より深謝いたします」と謝意を述べました。
エルフr-デの極刑には,兄レマルクの名が影響したことは間違いないように思います。
密告者インゲボルク・リースレは民族裁判所に対してエルフリーデ・ショルツを非常に不利な立場に追いやった発言のために人間性に対する犯罪のかどで,1950年にドレスデン検察庁から告訴され,5年の懲役刑,債権債務の制裁措置および財産の没収が言い渡されました。
以上の内容は「ヒトラーに抗した女たち」(マルタ・シャート・行路社)からい一部引用しました。
白バラの学生たちを断頭台に送り込んだローラント・フライスラーは,このように卑劣で残酷な裁判官でした。
池田晶子氏と陸田真志死刑囚の獄中哲学対話
SMクラブの従業員だった陸田真志(むつだ しんじ)は自身の双子の兄とともに,SMクラブのオーナーと社長の二人を殺害し,お金を奪いました。
「自身を卑下したのは,二人も殺しておきながら,それでも,まだ,『自分は死刑になりたくない』と考える自分がいる事でした。それは,二重の罪悪感となりました」と池田晶子氏に手紙を書きました。
ソクラテスやヘーゲルについて語るなどの哲学談議が手紙を通じて行われました。第一審で死刑判決が下される少し前から文通が始まりました。
池田晶子氏は,あなたはソクラテスの言葉を見事に正確に理解しています。私の著書,私の言葉は現代日本の人々には,ほとんど通じません。やっと私と対等に議論できる相手ができたのが嬉しい,と書きました。
永山則夫死刑囚から手紙が来ましたが,彼がマルクス・レーニン主義に固まり,自分の出自にこだわって,事件を起こしたのは社会のせいだ,極貧だったからだと言う様子を見て返事を書かず,彼をきびしく批判しました。
陸田死刑囚に対しては,善く生きること,死刑が執行されるまでの間たどりついた真理や幸福を世間に知らしめる義務があると池田晶子氏は手紙に書きました。
陸田死刑囚は被害者であるSMクラブのオーナーを自分以上に金に汚い男だったと手紙に書きましたが,殺されてもいい人間などいるものでしょうか。自分が生命を奪った被害者を侮辱してよいのでしょうか。
池田晶子氏は文通を始めるにあたって,予断をもたないために陸田死刑囚の事件の詳細など形而下のことはまったく知りたくなかったし,知らなかったと言いました。
しかしながら,陸田死刑囚の同僚が,どうもクスリをやっているらしい,目がいっちゃってる,二人を殺すと言いだしたので怖くなって翌日から店に出なくなったと言っているのですから,そうした異常な心理で行われた殺害事件であることは事前に知っておくべきだったと思います。
この本はかなり評判がよく,今でも池田晶子氏は人気があるのですが,私には池田晶子氏がやっと自分と対等に議論できる相手が現れたと言って,今までは私の言葉が分からないバカばかりだったという上から目線が気になりました。自分は何でも知っているというような傲慢さを感じました。
池田晶子氏は永山則夫死刑囚を嫌っていましたが,彼が犯罪に及んだのは貧しかったためで,ペルーではわずかなお金のために売春せざるをえない子どもたちがいることを彼が知って基金を立ち上げ,遠藤誠弁護士に運用を依頼し,その基金のおかげで大学に進学した,看護師になった,国会議員になったことを評価しなかったのでしょうか。永山死刑囚への見方は一面的だったと思います。
シモーヌ・ヴェイユは博識でたいへん頭のよかった人だと思います。兄(のちに数学者となる)に比べて自分は何と頭が悪いのだろうと14歳のときに本気で自殺を考えたことがあるそうです。大学教授資格を持ちながら,女性工場労働者の実態を知るべく,病弱な身体ながら工場労働者として働きました。キリスト教にはたいへんな関心を持ち,神父とも議論を重ねたにもかかわらず,生涯キリスト教の外に立ち止まったまま洗礼を受けることはありませんでした。
私はシモーヌ・ヴェイユの人間性や思想が好きです(「根をもつこと」で若干国家主義的になったのは違和感がありますが)。
池田晶子氏は2007年に47歳で病気のために他界,陸田死刑囚は2008年に37歳で処刑されました(宮崎勤死刑囚と同じ日に執行)。
自堕落だった人間性が死刑の宣告を受けることによって,陸田死刑囚はまっとうな人間になりました。加賀乙彦氏による小説「宣告」の主人公のモデルとなった正田昭死刑囚も死刑の宣告を受けたことでまっとうな人間,敬虔なクリスチャンになりました。
まっとうな人間になったのに,国家がその人間の生命を奪ってもよいのかという疑問が起こる一方で,死刑が宣告されなかったらその人間はまっとうな人間に変ることはなかっただろうとも思えます。悩ましいところです。
暴力的な取調を受けた林眞須美死刑囚
毎日,朝の8時半から夜の12時半まで,窓のない狭い部屋で,刑事,検事,事務官など常に3~4人の男たちに囲まれていた。机は蹴る,椅子は蹴飛ばす,怒鳴る,殴る,灰皿をぶつける,捜査書類で頭を殴るなど,当たり前のように暴力が振るわれた。机を押されて壁との間に体を挟まれたり,食べ物に中に安全ピンを入れられた。子どもたちの写真を見せつけられ,その写真で頭や腕を殴られたときが最も辛かった。
検事から,「自殺して死ね。そしたら東警察署の霊安室から引き取り手のない死体として出しちゃる」と何十回も言われた。
頭が変になり,幻覚が見えるようになった。一人の刑事が「やりました」という5文字を書けと言って,座っている私の左腕を思い切り殴ってきた。私は殴られたとき目が覚め,立って右手をぐうにして,思い切り刑事の左のほっぺを殴り返した。
私を殴った刑事は,激しく暴れて,そこらを蹴飛ばして出て行く際に,「私を「殺しちゃろか」と言うので,「根性あるなら,今ここで殺せ」といってやった。「28年間で,女に殴られたのは初めてや。よう覚えとけよ」と刑事は言った。
他の2人の刑事は「ええ根性した女やなあ」といってきた。
黙秘したまま取調の最終日,身上調書を含め1枚の供述調書も作成されなかった。検事はこのうように罵りながら出て行った。
「眞須美,よう覚えとけよ。おまえは,わしの言うとおりにしないで逆らった女や。一生拘置所生活さしちゃるからな。わしに,眞須美,お前が逆らったバツとして一生都島の大阪拘置所に放り込んどいてやる。死んだ時やないと出れん人生やぞ。わしからの,お前のプレゼントとして,都島の大阪拘置所に一日も早く送り込んでやるかたらな。お前が大阪拘置所に行ったら,わしの生きてる限り毎年,死刑執行してやるから,覚悟しとけよ。眞須美,そのたびに,震え上がってすごせ。健治や子供達は,その度,お前以上に震え上がるぞ!」
冤罪被害者となった村木厚子さんは検事から精神的に追い詰められたものの,暴力は受けなかったそうです。村木さんが礼儀正しい官僚で,夫も官僚だった
からかも知れません。大阪拘置所で村木さんが入った独居房は,その少し前までは林死刑囚が入っていたところだったそうです。
林死刑囚は松本サリン事件の冤罪被害者である河野義行さんと連絡を取りました。
またロス疑惑の三浦和義さんが支援の手を差しのべ,名誉棄損に対する本人訴訟の方法を教え,安田好弘弁護士が弁護士につくよう奔走したそうです。
以上の内容は,「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実(田中ひかる・ビジネス社)から一部引用しました。
著者が林死刑囚が状況証拠のみ,自白なし,動機も未解明のまま死刑を宣告されたことや,逮捕後6年以上も接見禁止とされたのは,刑事や検察の逆鱗に触れたからではないか指摘していました。
なかなか興味深い指摘だと思いました。
刑事や検事の逆鱗に触れたから,状況証拠,自白なし,動機を問わずに死刑というのではたまったものではありません。
再審請求が認められるべき事件だと思います。
なぜ人間を殺してはいけないのか。
つまりそのような質問を発する人は,すでに人間を殺すことはよくないことを知っていて説明不要であり,他人を困らせるために問うのだ,ということのようです。
人間の祖先の頭の骨を見ると,明らかに脳を食べられた形跡があると聞いたことがあります。人間の祖先の時代には,同種を殺すのは「(脳を)食べるため」だったのではないかと思います。
しかし,それを許していると種が撲滅してしまうので,殺すことはよくないことであるというタブーができたのではないかと思います。誰がタブーを作って,皆が従ったのかは分かりません。人間が暗闇を恐れるのは太古からの記憶が伝承されたからだという言い方がありますが,人間を殺すのは不快で耐え難いという感情が伝承されていったのではないかと思います。
近親相姦,例えば妻(母)をめぐって父と息子が争う,殺し合いをするというのでは家庭が崩壊し,種の存続が危ぶまれます。そこで近親相姦についてタブーができたのではないかと思います。
殺人も近親相姦も本能による禁止ではなく,あくまでもタブーなので破る人間が少数現れます。
シュタウフェンベルクが計画し失敗したヒトラー暗殺未遂事件,いわゆる7月
20日事件ですが,事件に関係した5000人ほどが逮捕され,その多くが処刑されました。ピアノ線で絞首され,苦しみもがきながら生命を終えていく様子を記録映画に残し,ヒトラーはそれを繰り返し見て復讐心を満足させたそうです。
このようなサディストは正常な感覚を欠いた人間です。
免田栄さん天国へ旅立つ
免田栄さんは死刑囚として再審無罪を勝ち取った最初の人でした。冤罪に苦しむ死刑囚の味方となり,死刑反対の立場から精力的に講演をこなしていました。
獄中ではたいへんに勉強したそうです。
私がアムネスティの会員になるずっと前,大学の先生のお誘いにより,アムネスティ主催の免田栄さんの講演会に聞きに行きました。
そのとき,「私は〇〇を拝命しました」という人の言うことは信じられない,と語っていたことだけはよく覚えています。警察官,検察官,裁判官などの意識は天皇制に密接に関係しているという趣旨でした。
お年とは言え,残念なことです。
ご冥福をお祈りします。
被害者参加制度について考える。
2.量刑だけを判断する独立の手続が存在しない。
日本における死刑事件の公判は,被告人が事実を争う場合であっても,有罪
か無罪かを判断する段階と量刑を判断する段階とに二分されていない。東京地
方裁所で2011年に審理された伊能和夫氏の公判でも,手続は二分されていなか
った。
3.死刑を求める被害者の声が事実認定をゆがめている。
死刑事件の公判が二分されていないために,被害者や被害者遺族が事実認定
(有罪か無罪かを認定する手続)において,どのような処罰を求めるかを陳述
することが認められている。しかし,二つの観点からこれは非常に危険であ
る。第一に,これまでの研究によれば,厳罰を求める被害者の声を聞いたと
き,事実認定者は被告人に対して有罪を言い渡す可能性が高まるからであ
る。第二に,被害者らがどのような処罰を求めるかという問題は,有罪か無
罪かという判断とは関係がない。
原理的にいえば,このような実務を正当化することはできない。したがっ
て刑事訴訟法上,裁判官は裁量で被害者陳述を認めないこともできる。しか
し,ほとんどの場合において,裁判官は被害者の陳述を認めている。
2008年から開始された「被害者参加制度」は被害者や被害者遺族の権利を
拡張し,彼らの声を強めた。しかし,被害者参加制度のもとでは法廷に現れ
る厳罰を求める感情的な声は,真実発見を阻害する。
裁判員制度とともに日本の司法制度を大きく変えたもう一つの改革が,被
害者参加制度である。この制度によって刑事手続の表舞台に被害者や被害者
遺族が入りこんだ。
日本の刑事手続において被害者たちは長きにわたって無視されてきた。し
たがって,被害者たちはこれまでよりも多くの支援や配慮を求める必要があ
ることは間違いない。しかし,彼らを助ける必要がある一方,被害者の権利
運動の多くは厳罰志向である。被害者支援の他の方策は無視されてきた。
日本の被害者権利運動も厳罰志向であり,被害者やその家族は刑事手続の
中で神聖というべき地位を得てきた。このことによって彼らに対する反対尋
問や彼らの主張への異議は困難になってきた。
熱心な反対尋問は公判で真実を判断するための重要なツールであるから,
被害者や遺族に対して反対尋問しづらいという状況は深刻である。例えば,
東京のある殺人事件で,被害者の母親が死んだ娘に会えなくて辛いと証言し
た。しかし,実際には母親は娘と殺害の何年も前から仲が悪く,娘の死亡後
に母親が相当な額の生命保険金を手に入れていたことを弁護人は知ってい
た。弁護人は,母親を「再被害者化」したと批判されることを恐れ,これら
の点について黙っていたことを後に明かした。被害者が神聖化されてしまう
と,真実が語られなくなる。
死刑存置論者の多くは,死刑判決や死刑執行により,被害者や遺族は「ク
ロージャ―」,つまりひどい出来事がようやく終わったという満足感を得る
という。しかしクロージャ―は神話にすぎない。なぜなら遺族の喪失感に
「終わり」はないからである。不幸なことに,彼らの苦しみは終わらないの
である。
日本では,被害者参加制度によって,殺人の被害者遺族や友人が死刑判決
の言渡しを求めることが可能であり,実際にもしばしば行われている。しか
し遺族が死刑判決を懇願するという状況になれば,裁判所の判断や検察官に
よる死刑求刑の判断はゆがめられかねない。ある殺人事件の公判では,遺族
である2人の親たち,彼らの代理人,4人の被害者,そして2人の検察官が公
判審理の最終日,3時間にわたって被告人に死刑判決を言い渡すよう訴え続
けた。実際,被告人には死刑が言い渡された。
日本の役人たちは,死刑が応報によって正当化されるという。しかし,実
のところ応報というのは,形を変えた被害者の復讐である。さらに,死刑存
置論者は被害者の怒りを盾にとって死刑を正当化しようとする。直接的に自
分たちの感情を口に出すよりも,その方が言いやすいからである。このよう
な隠れ蓑は,検察官によって特によく用いられる。検察官は被害者のために
というが,実際には被害感情が自分たちと同じ方向に向かうときはそれを利
用し,(死刑の適用を認めないという)別の方向に向かう時には被害者感情
を無視する。さらに,検察官たちは,死刑が言い渡される場合には執行前の
裁判がより長くなってしまうことを被害者に告げない。
被害者が求めるからという理由で,あるいは被害者のために死刑を言い渡
すべきか否かを決めるべきではない。死刑の言い渡しは,あまりに重大であ
る。民主主義社会においては,少数者が全員を代表して語るべきではない。
たとえその少数者が非常に気の毒な境遇に置かれていてもそうなのだ。ま
た,民主主義社会において刑罰の運用の在り方を考える際に,市民の選好が
果たすべき正しい役割を見極めるのは難しい。被害者や被害者遺族の選好は
関係がないわけではない。しかし,それによって他の実務的・法的な考慮が
周辺に追いやられてよいわけはない。それにもかかわらず,なぜか遺族の感
情は,その他あらゆるものを凌駕する切り札のようにして提示される。
今のところ,復讐を渇望する被害者の声は,日本の死刑制度におけるもっ
とも強い力の一つであるが,それについてほとんど議論はない。日本の法は
死刑が特別であるとはいっていない。したがって遺族たちの怒りや苦悶など
の強い圧力からの保護はほとんど提供されていない。
日本の殺人事件の裁判では,感情が中心的な役割を担う。だからこそ,裁
判において事実認定と量刑判断の段階を分けるという手続の二分を行うこと
が不可欠である。特に被告人が無実を争っている事件では手続を二分するこ
とが必要である。なぜなら裁判官と裁判員が,有罪無罪の判断には直接関係
しない被害者の証言(「被告人は罪をつぐなうべきである!」)を聞いた場
合に,有罪判決を言い渡す確率がかなり増加することがかなり増加すること
が研究でも示されているからである。
死刑はつまるところ復讐であると認識されなければならない。しかし復讐
は極刑を正当化するものではない。復讐は狂暴な感情であり,大義名分であ
る。したがって,それは復讐心をもつ人自身にとっても危険である。「復讐
の旅に出る者はその前に墓穴を二つ掘れ」という格言が語り継がれてきた。
以上で引用終わり。
被害者参加制度にも負の面があること,被害者感情を重視しすぎると事実
認定がうとんじられ,冤罪を生むことがあることの危険性を認識しておくべ
きだと思います。
9年ぶりに死刑執行なしの年に
死刑廃止は世界の常識になりつつあり、国連も死刑廃止を求めています。
しかしそれをあざ笑うかのように自民党政権及び法務大臣は死刑執行に積極姿勢、しかしコロナ禍のために執行を控えたというのが実情でしょう。
理由はともあれ突極の人権侵害、国の行う人殺しが行われなかったというのは2020年の数少ない国内の明るいニュースです。
年頭に当たり一日も早く過った過去の遺物である死刑制度が廃止されることを願いたいものです。
カザフスタンの死刑廃止を歓迎する
心より歓迎したいと思います。
死刑廃止を正式に決定した英断に対して心より敬意を表します。
死刑賛成弁護士
同書の中で,市野川容孝・東京大学大学院総合文化研究科教授が述べていた箇所を少し紹介したいと思います。
相模原事件をはじめ,2020年もいくつかの事件で死刑判決が出た。昨年7月には犯罪被害者支援弁護士フォーラムが『死刑賛成弁護士』(文春新書)を出版した。死刑制度について賛否が分かれていた日弁連が,明確に死刑廃止に姿勢を打ち出すのは,2011年10月の高松宣言以降だが,同フォーラムの弁護士たちが,日弁連のそうした姿勢を民意に背くとして批判する。
同フォーラムの人たちが死刑に賛成するのは,殺された被害者とその遺族の立場に立って考え,行動しているからである。同フォーラムの弁護士たちからすれば,日本で最も差別されてきたのは,「法律上保護される利益は認められない」とされてきた犯罪被害者とその家族や遺族だろう。そうした状況を変えねばならないという同フォーラムの主張と行動は間違っていない,と私は読んで痛感した。
しかし,その主張ならびに行動と,死刑賛成というもう一つの主張の間にはいくつか飛躍がある。
たとえば,高橋真人弁護士は,被害者が刑事裁判に直接参加するドイツの公訴参加制度を一つの範とし,日本が2007年の被害者参加制度でそれに近づいたことを是としつつ,その導入に反対したとして日弁連を批判しているが,ドイツのその公訴参加制度は,死刑廃止とセットで運営されているのである。法廷で被害者やその家族の声に耳を傾けることと死刑廃止は,制度として全く両立可能である。
2007年8月の闇サイト殺人事件で、見知らぬ男3人に当時31歳の娘さんを殺された磯谷富美子さんの「私が願ったのは全員の死刑」は,読んで胸がえぐられる思いがした。その末尾で磯谷さんは次のように訴えている。「最後に,死刑反対の人にお聞きしたいことがあります。あなたの娘や息子,愛する家族の命を奪った加害者に対しても,あなたは堂々と死刑反対と言えるでしょうか?本当に親として家族の一員として,反対で満足なのでしょうか。他人事としてではなく,自分の降りかかったらどうだろうかと,今一度お考えください」。
まず,私自身の答えを言う。磯谷さんには拒絶されるだろうが,もし私の娘が
磯谷さんの娘さんと同じように惨殺されたとしても,私自身は死刑を求めないだろう。死刑によっては何も解決しないと考えると思う。
死刑に反対する被害者遺族は日本にもいる。弟さんを殺した犯人とその犯人が処刑されたときの気持ちについて,原田正治さんは次のように述べている。「面会に行って彼が直接謝ってくれると,ある程度気持ちが落ち着くのです。なんと表現したらいいのかわかりませんが,「ああ,あいつは謝ってくれてる」と感じると,安堵感とでもいうような気持が出てくるのです。・・だから,僕が法務省や拘置所に求めたのは,一般論としての死刑廃止ではなく,長谷川君の減刑でもなく,僕が納得するまで彼と会わせてほしい,そのために死刑はまだ執行しないでほしいということでした。じゃあ,いつになったら執行していいのか,という期限については,僕もわかりません。・・・それなのに長谷川君と僕を会わせないというのが,今の法務省や拘置所のやり方です。そしてついには,僕を癒してくれる長谷川君を,死刑によって僕から奪ってしまったのです」
原田さんにとって一つの救いは,弟を殺した犯人が謝ってくれたことだが,すべての加害者がそうするわけではない。磯谷さんの娘を殺した犯人の一人は法廷で「殺害行為は仕事感覚だ」「ゴキブリを殺すのと一緒だ」と言ったという。原田さんのケースを一般化することはできない。しかし,磯谷さんのケースも一般化できない。
被害者遺族の立場に立つという信条を,弁護士として本当に貫くなら,それぞれに異なりうる遺族も声に耳を傾けながら,死刑を時に否定し,時に求めるという,それ自体は一貫しない態度をとらなければならないはずだ。なのに,なぜ死刑賛成と言い切れるのか?所々で何かが省略されているように思う。
以上で引用を終わります。
修復的正義
ひどい事件が起こったときに,どうすることが正義なのだろうか。現在の刑事司法制度は,その問いに応えるべく発展してきた制度である。一方,1970年代に被害者加害者対話プログラムとして開始された修復的正義(restoractive justice)は,その問いをめぐり,既存の刑事司法制度へのオルタナティブとしての意味合いももちながら,一定の評価を得て世界中に広まった。
修復的正義は,北米にメノー派キリスト教徒を中心とする人々によって,被害者加害者和解調停プログラムとして開始された。メノー派の検察官が少年犯罪を扱うにあたり,通常の刑事司法システムで裁くだけでなく,その加害少年を被害者に直接会わせてみたところ,加害少年が被害者に会って実際に悲しみを聞くことで,より反省が促されたという。さらには,被害者に側も加害者への過剰な恐怖が消え去り,加害者が犯罪に至った背景にも理解が深まり,更生に協力する動きさえ生まれた事例もあった。
刑事司法では通常,①どの法律を,②誰が破り,③どの罰に値するか,という考え方をするが,修復的正義では,①誰が被害を受け,②害を受けた人のニーズは何で,③誰がどのようにそのニーズを満たす責任をとっていくのか,という考え方をする。
その背景には視点の違いがある。刑事司法では「法を犯したかどうか」を基準に考え,修復的正義は「傷つける行為が起こったかどうか」を基準とする。修復的正義では「問題」とする行為を,国家との関係ではなく,人と人の関係で見ているのである。
もう一つは「問題」が起こったときに,どのようにするのが「正義の道」かについての考え方である。刑事司法における刑事罰の基礎には,「問題」を起こした人は「報い(罰)を受けるべきという考え方(=応報的正義)がある。一方で修復的正義の基礎には,「問題」を起こした人はその「問題」を「解決することに責任をもつべき」だ,という考え方がある。
(被害者の心理サイクルと修復的再生モデルという図があるのですが,文章にして説明します)。
暴力やトラウマとなる出来事→心理的変化→ショック,傷つき,否定,不安,恐れ→喪失・パニック→悲しみや恐れを抑圧 孤独化・孤立化→侵入的再体験
記憶喪失,過覚醒→サバイバーとしての罪悪感→救いのない感覚→激しい怒り
スピリチュアルな疑問 人生の意味の喪失→正義のニーズ 復讐を夢想
(ここから2つに分かれます)。
正義のニーズ 復讐を夢想→自分を責める→自暴自棄やストレス病→自傷・自死 アクトイン(自分への怒り・攻撃)
正義のニーズ 復讐を夢想→悪者・善者(敵・味方)という語り→(応報・征伐・自衛という名における)正当化された攻撃活動 アクトアウト(他者への怒り・攻撃)
しかしアクトインとアクトアウトには厄介な面がある。両者とも,結局は傷つき(の原因となった暴力)を次に持ち越して新たに傷つく人を生むという「暴力の連鎖サイクル」の中にあるという点だ。「暴力的な刑」により死刑囚の家族は傷つき,やりきれない絶望の底におかれる。被害者家族も,一時は救われても,自分の家族に関連してさらに一人の命が絶たれたという重荷は続いていく。
この連鎖を断ち切るべく考え出されたのが,被害者回復モデルにおける修復的正義のプロセスである。
正義のニーズ 復讐を夢想:安全,自由 生きることを選択→回想,喪の作業
安全な怒りの表現→回想,根本的な原因理解,敵の側のストーリーを知る 自らの短絡に向き合う→リスクをとる勇気 寛容と共存→敵と向き合う→補償の責任を認め正義の確立→解決策の模索・交渉→トラウマの歴史を含めた新しいアイデンティティの確立→赦しと和解の可能性へ
筆者は,水俣病公害事件を経験した水俣に住んでいるが,地域の基幹産業会社が加害企業になった水俣では,地域の人間関係が複雑な加害被害関係の中におかれ,正義を求める中で敵味方として分断していった。しかしその中で「私と同じ苦しみを経験する人は二度と出ないでほしい。加害企業も政府も赦すから,過ちのない社会を一緒に作ってほしい」という被害者リーダーの声に救われて,地域は和解と再生に向かっていった。しかしそのリーダーたちも,最初から赦していたわけではない。苦しみを味わい尽くし,後に,憎しみや復讐からは未来が生まれないと変化したという。
筆者は,現存の修復的正義のプログラムですべてが解決するとは思っていない。特に被害者加害者対話プログラムの中には,修復的な変容には至らずに形ばかりで終わる例も存在するし,一方で,被害者との直接対話によって加害者が自分の罪の重みに気づき,自ら死を選んでしまった事例もある。
以上で,引用を終わります。
天皇制と死刑
1910~11年の「大逆事件」に象徴されるように,「死刑」と天皇制の分かち難い結びつきも過去の歴史として葬り去るわけにもいかない。事実,戦後過程においても「大逆罪」の復活を想起させる死刑判決はあった。いわゆる「連続企業爆破」を行った東アジア反日武装戦線に所属した被告に対する第一審判決(1979年)は,天皇が乗った「お召列車」の爆破を計画したとして「国民統合の象徴たる天皇に対する攻撃」という言葉遣いで,未遂に終わったにも拘わらず,死刑判決の理由のひとつとした。2018年,オウム真理教幹部13人の死刑執行が行われたとき,メディアは一斉に「法務省幹部」の言葉を伝えた。「2019年には天皇の退位で元号が代わり,新天皇の即位に伴う皇室の行事が予定されている」「オウム事件は平成を象徴する事件,平成のうちに区切りをつけるべきだ」。
竹内好の言い方に倣えば,天皇制が「一木一草にある」社会なのだ,日本は。
私たちは,敗戦の翌年に坂口安吾が書いた「堕落論」「天皇小論」「続堕落論」などに書きつけられた言葉を,今なお心して読む必要があると思う。「そこには,戦時中の軍部のみならず,「我々国民」もが,主体的な判断を先延ばしして,「外ならぬ陛下の命令」を待ち続け,「朕の命令」がいったん下ると,泣いて,忍びがたきを忍んでそれにひれ伏すさまが,憤怒を込めて記されている。
死刑を廃止するにも,戦争を拒否するにも,民衆の主体的な判断が何よりも重要である。重大な出来事を前に判断停止に陥り,ひたすら「上からの」指示を待ち,それに付き従う日本社会特有の在り方は,このコロナ禍の下でも繰り返されている。天皇制を抱え込んだままの日本社会が孕むこの基本的な矛盾に目を瞑っていては,何ごとも始まらないのだ。
死刑廃止運動の場で同席する機会のある作家・加賀乙彦氏が語ってくれたことがある。1929年生まれの氏は,日本帝国の敗戦直後には20歳前後だったから,当時の時代的な記憶が鮮明だ。1947年に施行された新憲法が「戦争放棄・軍隊不保持」を謳った以上,同時に「死刑による死」もなくすことも当然とする雰囲気が社会にはあった,と。
以上で引用終わり。
平成天皇が退位を希望したために,オウム真理教の死刑囚13人は悔悟・反省を熟考する時間を奪われ,真相解明にも早々と蓋をする結果になったのは,なんともやりきれません。
加賀乙彦氏が語った敗戦直後の社会的な雰囲気として,当然「死刑による死」をなくそうとする動きがあったことは,とても興味深いものがあります。
修復的正義の実例
米国の殺人事件被害者家族と加害者の対話の実例
Aは15歳のときに仲間と女性を誘拐し,性的に犯して銃で殺害し,実刑判決を受けて収監された。被害者の女性には当時5才の娘がいたが,15年経って一児のシングルマザーになっていた。被害者の娘とその祖母は15年経って加害者と直接会うことを決意し,被害者支援センターの被害者加害者対話支援サービスに申し込んだ。
センターは個別訪問や詳細な調査を行い,対話可能と判断した。
午前9時に刑務所内の礼拝堂にて,被害者家族が待つ部屋にコーディネーターが加害者を招き入れた。
被害者の女性は,車が故障して困っていた自分たちを助けてくれただけだった。それをだまして草むらに連れて行き,性的に犯して,顔を見られたので銃で撃った・・・と,加害者は当日のことを語った。
被害者の母が娘の最後の言葉を尋ねたところ,「私たちが殺そうと銃を向けたとき,彼女は『私はあなたたちを赦します。神もそうなさるでしょう』といったのです。今でも,そのことだけははっきり覚えています」と嗚咽しながら語った。被害者の母は孫娘の肩を抱き,「それがあなたのママなのよ」と泣いた。
孫娘もコーディネーターも涙していた。
昼食をはさみ午後の対話が始まった。午後は和やかな雰囲気で始まり,加害者の幼少期からの人生について語られた。「母の顔を知らずに施設で育ち,養父に性的暴力を受けました。居場所がなくなって夜の街へ。薬と自殺未遂を繰り返しました。そんな中,あの事件を起こしてしまった」と加害者は語り,加害者の痛々しい少年時代に被害者家族は言葉を失った。
加害者が「私が仮釈放になることがあるとすれば,どうお感じになるでしょうか」と尋ねると,被害者家族は「残りの人生を前向きに生きるなら,どこに行ってもかまいません。ただ,刑務所にいる間,できるだけ長く刑務所内学校で教育を受けてほしいのです」と答えた。
対話コーディネーターが「最後に言いたいことは」と尋ねたところ,被害者家族はひそひそと話した後「一緒に写真を撮りたいのです」といった。そんなことが許されていいのか,とためらう加害者を被害者家族は抱き寄せた。申し訳なさそうに,しかし初めて愛を知った少年のような笑顔を見せる加害者。被害者家族にも,何かから少し解き放たれたような安堵の表情があった。
以上で引用終わり。
ウソのようで本当にあったことです。
パキスタンの最高裁が精神疾患者の死刑執行を禁止
今回の判決により,精神疾患を持つ者あるいは精神疾患の可能性がある死刑囚の執行がなくなることになります。
殺人罪に問われていたイムダド・アリさんとカニザン・ビビさんは,統合失調症と診断されていたにもかかわらず,それぞれ1991年と2002年に死刑が確定していました。統合失調症を患っているとして死刑執行停止命令が出されるまでに,何度も死刑執行命令が出されていました。
最高裁判所の裁判官は死刑の減刑を言い渡すにあたり,次のように語りました。「これまでの議論を考慮し,精神疾患の囚人が,罰を受ける理由を理解できないことが判明したならば,執行は,正義をはたすことにはならない」
改善の一歩だと思います。
米バージニア州の死刑廃止を歓迎する
今では先進国で存置している国は、日本とアメリカの一部の州だけになりました。
2月22日アメリカのバージニア州議会は死刑を廃止する法案を可決、ノーサム州知事は法案に署名し発効することになりました。
バージニア州はアメリカで死刑を廃止した23番目の州になりました。
そして米南部で初の死刑廃止州が誕生。
心より歓迎したいと思います。
死刑を存置する他の州、そして連邦政府もバージニア州にならい、死刑制度廃止の英断を!
そしてアメリカも死刑廃止国の仲間入りを!
修復的正義の実例(2)
韓国の連続殺人事件被害者家族K氏の事例
韓国で史上最悪といわれた連続殺人事件があった。K氏が仕事から家に戻ると,自分の母と妻,息子が殺されていた。一日にして残酷な方法で愛する人々を失ったK氏は生きる気力をなくし,うつ状態になり,死のうと思った。橋から飛び降りようと足を欄干にかけた瞬間,突然K氏の頭に「どうせ死ぬなら赦してから死んではどうか」という思いが降ってきたという。応答するように「自分は赦します」とK氏は心に決めた。そう思った瞬間,急に死にたい気持ちが消え,生きる希望が湧いた。
その後K氏は韓国の死刑廃止運動の中心の一人になった。彼は,自分の家族を殺めて死刑囚として収監されている加害者に手紙を書き始めた。返事がなくとも,ずっと書き続けた。そして加害者が出獄してくるときのために.少しずつ彼に送金した。のちにK氏は韓国の修復的正義のリーダーを通じて修復的正義の考え方とも出会った。彼はその考え方に共鳴し,東アジア各国の若者たちと共に修復的正義を学び,自身の人生史を語った。カトリック信者で若かりし日に日系企業で働いていたK氏は日本語が堪能だった。日本で修復的正義を研究する筆者(石原明子准教授)に,彼は温かくしかし整った文字で,「大切なお仕事のために祈っています」と手紙をくれた。
以上で引用終わり。
信じられないようですが,本当の話です。
村野瀬ソンセンニム,カムサハムニダ(村野瀬先生様,ありがとうございます)。
死刑判決の取り消し
南スーダンのマガイ・マティオップ・ンゴングさんは15歳のときに死刑判決を受けていましたが,2020年7月に取り消されました。南スーダン政府に判決の取り消しを求める要請及びメッセージは765,000件にのぼりました。
「本当にどうもありがとうございました。言葉もありません。僕がどんなに嬉しいか,皆さんにはきっと想像もつかないでしょう」とマガイ・マティオップ・ンゴングさんはメッセージをよこしてくれました。
日本キリシタン殉教史における子どもたちの処刑
秀吉は京都から長崎まで800キロの道を行進させて,長崎で処刑しました。そては街道の人々と,長崎に住むヨーロッパ人やキリシタンたちとに対する見せしめとして意図されたものでした。これが1595年2月5日におきた「日本二十六聖人殉教」ででした。
処刑責任者は長崎奉行の唐津藩主寺沢広高でしたが,秀吉の朝鮮出兵にあたり博多から離れることができないので,死刑の執行は弟の半三郎にまかされました。名簿の中に12歳のいたいけな少年ルドビコ茨木がその中にいることを知り,なんとか助けたい,それには信仰を捨てさせねばならないと考えました。
半三郎が『お前の命は見どもの手のうちにある。私に仕えることを望むなら助けて遣わそうぞ。キリシタンを捨てることが条件だず』と言ったののの,元気のよい12歳の少年ルドビコは『それほどまでして生命を助かろうとは思いませぬ。たちまち滅びる短い肉体の生命と永遠の霊魂の生命とを取りかえられるわけがございませぬ』と答えました。
丘の上には26本の十字架が備えられていて,殉教者たちは自分の十字架を求めて走りより,それを抱きしめました、
12歳のロドリゴは槍をうけとき,“パライソ(天国)”,パライソ(天国”とつぶやいて目を天に向けながら息を絶えました。すべての遺骸は80日間十字架上に曝されました。
1609年1月11日に加藤清正の命により,2人の慈悲役(ミゲル,ジョアンナ)と
その子(トマス12歳,ペトロ6歳)が斬首されました。
ミゲルは一撃で首が落ちました。トマスは父の遺体の前で死にたいと,父の血が流れている土の上にひざまずき天を仰ぎながら刀を受けました。ジョアンナも一刀の下に斬られました。首切り役人は静かに斬られるのをまっているいたいけな子(ペトロ6歳)を斬ることを次々と二人が断り,三人目の役人は斬り損ねて右肩を傷つけ,ペトロは横ざまに倒れました。役人はたまらず役目を断ってしまったので,朝鮮生まれの非人がひきうけ,斬り損ねようやく三太刀で首を落としました。
1619年10月11日には,徳川秀忠の命により五十二人の大殉教が加茂川六条河原
で行われました。27本の十字架が建てられ,おびただしい薪が積み上げられました。人々の涙をさそったのは5人の子供と捕らえられた橋本太兵衛夫人のテクラでした。彼女は身重でした。3歳のルシアを胸に抱き,12歳のトマスは右につらされ,8歳のフランシスコは左の方に一つの柱に縛られていました。13歳のカタリナと6歳のペトロはその側の十字架にくくられていました。太兵衛は妻子から離れた十字架に縛られていました。
火が付けられ、猛烈に炎があがりました。娘カタリナは「母さま,私もう目が
見えない」と言いました。母は「ゼズースさまとマリアさまにお願いなさい」と答えました。抱かれたルシアは死後もしっかりと母の体にくっついていました。
わが子の顔をさすって涙を手でふいている母親の姿が炎の間から垣間見られました。キリシタンでない人も「こんなに殊勝な信心家たちを見たことがない」と
ささやきあっていました。
1622年9月10日には長崎の西坂で五十五人の大殉教がありました。神父9人を含み修道士,信徒をあわせて25人は火刑,30人は斬首刑に処せられました。
斬首組の中には,ダミアノ多田の子ミカエルが5歳,永石夫妻の子ペトロは7歳,クレメントの子アントニオは3歳でした。
純心短期大学副学長などを務めた片岡弥吉氏が,故矢内原忠雄東京大学学長が,かつて長崎を遊んだ時に西坂に案内したことがあったそうです。「ここで殉教した六百余人のキリシタンの中には,1歳,2歳という幼児もいた」ことを何心なく話しました。そのときはただ頷くだけだった学長が,帰りの自動車の中で「気分が悪くなった」といわれたそうです。わけを尋ねると「日本人はなぜこんな小さい子どもまで殺したのか」と嘆かれたそうです。
片岡氏は,幕府の非道なキリシタン弾圧も人間関係をタテ割りに階級づけた封建制も,異常な政治体制である。異常な政治・社会や異常な環境の中に住む人間にもまた異常な心理が起こる。矢内原学長が嘆かれた残酷は,この異常心理が生み出したものだろう,と述べました。
以上,「日本キリシタン殉教史」(片岡弥吉・時事通信社)から一部引用しました。
いとけない子どもの信教の自由を認めずに死刑に処したというのは,なんとも非道で言葉を失ってしまいます。
思想・信条・信教を理由に子どもたちが殺される社会がこれから存在することはない,などと楽観的な気持ちにはなれません。昔のこととは言え,実際に日本人が起こしたことです。
忖度が日本の社会を覆っています。
悲しいかな国民もこの事態を改閉口棄民と嘘と公文書改ざんの自民党政治。そんな政府がすすめる「デジタル庁」に漠然と期待することはできない。 #デジタル監視法案に反対します #デジタル庁はいらない #デジタル庁デジタル改革関連法案一番問題なのは国民の無関心のうちに、国会でまともに審議されることもなくデジタル改革関連法案が成立したということです。
法案の中身を知らない国民が大半ではないでし閉口トリチウムのゆるキャラに放射性物質を無害化する化学的作用はない。特殊詐欺を警戒するのと同じく、ゆるキャラ詐欺も警戒すべき。六ケ所村再処理工場のトリチウム排出も大問題2021年4月15日,日本キリスト教協議会は福島第一原発トリチウム汚染水海洋排出についての政府閣議決定に抗議する声明を発表しました。
その中では,
現実的には,現Takeshiぼうごなつこ (なすこ) @nasukoB @jgz485 さんの漫画は最高。ぼうご なつこさんの漫画に共感 ぼうご なつこさんの漫画は,気の利かない政治評論家や記者たちよりもずっと簡潔・適確に問題点を指摘していると思います。また,漫画に描かれる政治家や官僚が本人そっTakeshi「靖国神社思想の本音」 (メモ)中国に「侵略」を謝罪した元陸軍中将遠藤三郎 昭和20年代後半から30年代にかけて自民党と社会党の対立の中で社会党には有力な援軍がいて,「護憲三羽烏」と言われた3人がいました。
ひとりは近衛内閣の書記官長を務Takeshi「性風俗業は不健全」としてコロナ給付金の対象から除外することは政府による差別である。政府はすぐに差別をやめて、給付金を該当者に支払うべき。セックスワーカーへの給付金不支給は差別であり,合理性がない。 村野瀬さんの御意見に賛成です。
セックスワーカーであってもきちんと納税している限り(納税していない子どもたちにも支給されているのに),給付金の支給を行わないTakeshi出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。管理人様へこの手の話での自身の意見の開陳は「公務員法違反」の恐れがありますのでTakeshiさんが紹介していたアムネスティの意見に対して「別の視点からはこんな見方がありますよ」こっぱなお役人(流水管理中)「靖国神社思想の本音」 (メモ)日中戦争は侵略戦争だったことの証拠 「満州事変 政策の形成過程」(緒方貞子・岩波書店)から引用します。
将来戦ノ状況ヲ考察スルニ内愈々国力ノ充実全国民ノ訓練総動員的計画ニヨル全戦争能力ノ統制整Takeshi「靖国神社思想の本音」 (メモ)大正時代における靖国神社批判「戦没者合祀と靖国神社」(赤澤史朗・吉川弘文館)に1910年代から20年代における靖国神社批判に関する文章が載っていたので,紹介したいと思います。
吉野作造が彼の友Takeshi出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。Re: ちょっと政府(出入国在留管理庁)の立場でTakeshiさんに反論こっぱなお役人(流水管理中)さん、
これは、政府の本音を解説することが目的でしょうか。それとも、Takeshiさんの意見は正しくないと言いたいのでしょうか。その点はっ村野瀬 玲奈出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。ちょっと政府(出入国在留管理庁)の立場でTakeshiさんに反論>1 収容の目的を限定し,法律に明記すること
収容の目的は、「送還(国外追放)をすること」、その準備として拘束するということです
「正式な許可を得た」以外の外国人こっぱなお役人(流水管理中)「靖国神社思想の本音」 (メモ)「琉神神マブヤー」に見る沖縄の心 私は見たことがなかったのですが,「琉神マブヤー」というヒーローもののテレビ番組が2008年10月から12月にかけて,毎週土曜日6時45分から沖縄で放送されてたそうです。
Takeshi放射性物質で汚染された水を日本が海洋に長期間、大量投棄するなら、日本国と日本人全体が環境テロリストとみなされても文句は言えない。 #汚染水の海洋放出に反対します日本政府は諸外国にけんかを売っているのか。 放射能汚染水の排出についてはアルジャジーラもトップで大きくとりあげました。諸外国から日本政府の方針について好意的なものは皆無のように見えます。
海洋は日本だTakeshi「靖国神社思想の本音」 (メモ)大東亜戦争肯定論を批判する。 大東亜戦争肯定論というものがあります。戦争はやむにやまれず起こった自衛のためのものであり,欧米帝国主義からアジア諸国を解放するものであった,という論です。
Takeshi昭和は輝いていなかった、少なくとも1945年までは。 (テレビ番組「武田鉄矢の昭和は輝いていた」への批判的感想)テレビ番組について思う。 武田鉄矢が扮する「水戸黄門」は国民的なテレビ番組であるものの,権力に頼って権力を打ち負かし,平民がありがとうございますと感謝するのは,日本人の奴隷根性を増長さTakeshi出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。今でさえひどい入管法をこれ以上改悪してはならない。 アムネスティ・インターナショナル日本支部は2019年2月19日に国際人権基準に則った出入国管理及び難民認定法改正を求める意見書を発表しています。
日本の入管収容およTakeshi「靖国神社思想の本音」 (メモ)靖国神社と東京裁判東京裁判は「勝者による裁き」として,これを拒否する右派陣営の声が絶えることがありません。
サンフランシスコ講和条約の調印(1951年9月8日)は,配線後の日本を連合Takeshi出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。こんなことをやっていたら日本は難民条約に加入していますが、難民の受入れには否定的、世論もそれを支持しています。
事の発端はそこにあります。
そして外国人は受け入れても技能実習生の名のもと閉口出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。Re: 反世界・反人間な日本、最も罪深い共犯者は無関心な国民だ。無記名コメント様
コメントありがとうございます。
経験上、無記名コメントは公開しないことが多いのですが、いくつかの無記名コメントは内容を見たうえで公開してい村野瀬 玲奈出入国管理法の改悪は、日本政府による反人道的行為であり外国人虐待である。廃案にすべき。反世界・反人間な日本、最も罪深い共犯者は無関心な国民だ。Kurukuru89という人物のブログに詳しく記載されているのですが、もともと日本人というのは、人を「自分に都合のいい『モノ』」としか見ないという特性があるようです。立場(無記名コメント)「靖国神社思想の本音」 (メモ)A級戦犯と靖国神社「創られた天皇制」(裴富吉・同時代社)から引用します。一部重複する表現もありますが。
昭和天皇は,敗戦直後からの戦犯訴追の危機を「すべての責任を東條におっかぶTakeshiデジタル監視法、デジタル関連税金浪費法となるであろう #デジタル改革関連法案 は国民のためにならないと言える。 #デジタル監視法案に反対します #デジタル庁はいらないどさくさに紛れて法案が衆議院を通過 重大な法案であるにもかかわらず,デジタル監視法案が衆議院を通過しました。
審議時間はわずかだったと聞きます。
国民は新型コロナに心がいっぱいで,政府は五輪Takeshi天皇の記者会見から憲法関係の部分をカットするNHKは誰のために報道しているのか?明治天皇とは誰だったのか「創られた天皇制」(裴富吉・同時代社)から引用します。
1850(嘉永3)年1月 大室虎吉(のちの大室寅之祐=明治天皇)誕生。
1865(慶応1)年3月 全国の勤皇志士Takeshi天皇の記者会見から憲法関係の部分をカットするNHKは誰のために報道しているのか?天皇制は奴隷制か 藤田省三は「天皇制国家の支配原理」(みすず書房)の中の「『諒闇』の社会的構造」で次のように言っています。
昭和元年は周知のように一週間に過ぎない。一週間が一Takeshiデジタル監視法、デジタル関連税金浪費法となるであろう #デジタル改革関連法案 は国民のためにならないと言える。 #デジタル監視法案に反対します #デジタル庁はいらない国民監視・圧迫の「ジャパンアズナンバーワン」樹立かもな一昨日タイトルのようなことを書きましたが、お友達に利益をばらまき、さらに彼らから自らへの献金を受け、国民を監視し圧迫する自民党政権を、「だって他に政権任せられる(無記名コメント)自民党が作りたいらしい「こども庁」の目的と政策を予想するそれに沈黙して「容認」し続ける国民も国民。さらに、「子供は国の宝」などというのは建前で、本音は「邪魔者」でしかなく、「性行為のメタファー」であるとさえ思っているのが、この日本という国なのでしょうね。こん(無記名コメント)カードの暗証番号を聞きたがる業者を特殊詐欺と疑うのが当然であるのと同じく、 #デジタル改革関連法案 を疑う。 #デジタル監視法案に反対します #デジタル庁はいらない「日の丸損壊罪」とか、馬鹿じゃねえの?記事の内容と関係ありませんが、「国旗損壊罪」なる狂気の法案が通りそうだったとのことです。
単なる布切れを破いたりしたら罰するぞという下らないものなのですが、少し(無記名コメント)「不法滞在」とはどのような犯罪なのか。 (「とほほのとほほ空間」からメモ)名古屋入管で死亡したスリランカ人女性 2021年3月6日,留学生だったスリランカ人女性(30代)Sさんが名古屋出入国在留管理局の収容施設で死亡しました。
Sさんはスリランカで大学卒業後に英語を教えていまTakeshi佐川宣寿国税庁長官の罷免を求める署名運動佐川宣寿に対する告発状が返戻された。「森友事件とは,長期政権を誇った当時の内閣総理大臣の国政私物化を本質とする政治的犯罪である。最高権力者である時の内閣総理大臣による国政私物化を実現する官僚の犯罪Takeshiスポンサーファースト、政治ファースト、アスリートラストの無残な聖火リレー #東京五輪の中止を求めます一度リセットが必要人間の貪欲は「平和の祭典」である五輪を「利権の祭典」に変質させてしまいました。
JOCのみならず悲しいかなIOCも利権の集団になってしまいました。
五輪憲章、五輪閉口