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最新記事二つ、
■「現在の日本人」が、終わったはずの「大日本帝国」の残虐行為や非人間的行為を隠したりかばったりすることは、現在の日本と大日本帝国の類似を示す。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4713.html■日本は第二次世界大戦での加害国であることを本当にわかっているのだろうか
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4714.htmlの補足としても、靖国神社と政権の中とその近くの保守政治家による靖国参拝、そして、戦争責任と日本の加害者性についてのメモを。
●朝日新聞デジタル
終戦の日、3閣僚が靖国参拝 国会議員の会102人も
http://www.asahi.com/politics/update/0816/TKY201308150391.html
2013年8月16日0時4分
東京・九段北の靖国神社には終戦の日の15日、新藤義孝総務相、古屋圭司拉致問題相、稲田朋美行革相の3閣僚が参拝に訪れた。ほかに超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長=尾辻秀久元厚生労働相)の衆参両院議員約100人も参拝。安倍晋三首相は参拝を見送り、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。
首相は15日午前、首相官邸で記者団に「国のために戦い、尊い命を犠牲にした英霊に対する感謝の気持ちと尊崇の念を込めた」と強調。首相在任中に参拝する可能性については「政治・外交問題に発展していくという観点から申し上げない」と言及を避けた。
一方、参拝した新藤氏は「個人の立場で私的な参拝をした」、古屋氏は「祖国のために犠牲になった英霊に哀悼の誠を捧げるのは日本人として当然の責務だ」と説明。稲田氏は記者団の質問に答えなかった。菅義偉官房長官は15日午前の記者会見で「私人の立場で参拝するのは信教の自由に関する問題で、政府として立ち入らない」と述べ、問題視しない考えを示した。
「国会議員の会」としての参拝者は計102人(同会まとめ)に上り、自民党の高市早苗政調会長も参加した。同会とは別に、自民党の野田聖子総務会長や日本維新の会の石原慎太郎共同代表も参拝した。
(転載ここまで)
●Joongang Ilbo 中央日報
【社説】安倍内閣、8・15に靖国参拝しないことを
http://japanese.joins.com/article/930/174930.html
2013年08月12日08時39分
日本の安倍晋三内閣の一部の閣僚が、太平洋戦争の終戦記念日である15日に靖国神社を参拝する模様だ。すでに参拝の意思を明らかにした稲田朋美行政改革相と新藤義孝総務相に続き、古屋圭司拉致問題担当相も参拝の可能性を示唆したという。安倍首相は「閣僚が個人として靖国神社を参拝するかどうかは心の問題であり自由だ」と話しているが、卑怯で無責任な詭弁だ。現職閣僚の靖国参拝が持つ意味と波紋を考慮すれば、内閣を統轄する首相として他人事のように言い逃れるような話にはならない。
いくら宗教色を重ねて覆っても、靖国が日本の軍国主義の象徴だという事実は変わらない。神風“自殺”特攻隊員は「靖国で会おう」という言葉を残して戦闘機に乗った。しかも靖国には、太平洋戦争のA級戦犯14人が合祀されている。軍国主義的侵略の被害者に少しでも配慮する心を持っているならば、8月15日に合わせたように靖国を参拝するような挑発的行動はできないはずだ。靖国を訪れる代わりに、誤った過去を反省して謝罪する声明を発表することが安倍内閣の正しい選択だ。
日本の良識ある市民が、なぜ先週末に東京都内で靖国参拝に反対するろうそくデモを行ったのか、安倍首相はよく考えてみなければならない。どうしてデモ参加者の口から「(靖国)戦死を祝賀する価値観を持つようにしてから戦争で死ねる人間をつくり出す思想的な装置」だという批判が出てくるのか、反すうしてみなければならない。平和憲法の解釈を変える見せかけの形で集団的自衛権を行使しようとする意図が、閣僚の靖国神社参拝を放置する安倍首相自身の下心と一脈相通じるものではないのか、自問してみなければならない。
安倍首相自身は終戦記念日に靖国神社を参拝する計画がないとしても、それだけでは不十分だ。閣僚も参拝できないようにしなければならない。それが歴史と周辺国との関係を考える最小限の良識ある行動だ。安倍首相の賢明な判断を促す。
(転載ここまで)
●水島宏明 - 個人 - Yahoo!ニュース終戦記念日の靖国神社周辺 「テレビが映さない光景」
水島宏明 | 法政大学教授・元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20130816-00027308/2013年8月16日 13時21分
●青空文庫
戦争責任者の問題
伊丹万作
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
(前略)
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
(後略...ぜひ全文をリンク先でどうぞ)
(引用ここまで)
●迎春閣之風波
最近ボツ記事が多すぎるぜ(-""-;)
http://ameblo.jp/voodoo32kpci/entry-11598220516.html
2013-08-23 14:40:11
(前略)
前々から思っていたんだが、靖国神社や国家神道を糾弾出来ないカルト宗教批判なんて、ホントにやる気があるのか疑われてもしょうがねーんじゃあネーの???
オウム真理教や創価学会や統一教会がいくらマスコミで批判されても、正直その批判の中身にほとんど説得力を感じないのは、そんなモンが霞んでしまうくらい超ド級のカルト宗教が、Air左翼も真っ青の不滅っぷりを発揮して、のさばり続けているからでしょう。
「お国のためなら非国民に対して特高は拷問してもOKだし、戦争で犬死にしても死んだら神としてまつられるからすすんで命を捧げよう、生きて捕虜になるくらいなら死を選ぼう」なんて「狂った」のヒトコトで言い表せる歴史の事実は、その行為をあらゆるベクトルから完全否定されなきゃイカンのに、未だに日の丸と君が代は植民地同様に強制され続け、国家財政に負担をかけると言われれば生活保護が受給出来ずに餓死者を出す程の社会保障費削減にも疑問も持たず、お上への抗議行動では不当逮捕が続出し、原発作業員は神としてまつられかねないくらい英雄的行動を要求される。。。
「悪いものは悪いというだけ」程度のコトが出来なくて、イッタイ何人死なせました???
サリンまくドコロのハナシじゃあないですよ。
(引用ここまで)
●模型とかキャラ弁とか歴史とか
[歴史][歴史修正主義]靖国神社は歴史否認装置であり感情慰撫のための嘘製造機
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20130429/p1
2013-04-29
中国政府は一九八五年、中曽根康弘首相が靖国神社の「公式参拝」を行なった際、正式に抗議を開始した。A級戦犯が祀られている神社に日本の首相が参拝することは日本政府の戦争責任認識を疑わせ、日本の侵略の被害を受けたアジアの人びとの感情を著しく傷つけるというのが、中国政府の一貫した批判であり、韓国政府もこの点では一致している。中曽根首相は中国政府の非難を受けて、翌年から参拝を中止した。ところが小泉首相は、中国や韓国の批判を「内政干渉」として斥け、逆に「外国の非難にも屈せず堂々と日本の立場を貫く指導者」というイメージをつくり出して、支持率の維持に利用した。その結果、中国や韓国の指導者は小泉首相との首脳会談をたびたび拒否し、日中、日韓の政治的関係は「最低」と言われるところまで落ち込んでいたのである。
(中略)
第一に、靖国神社がA級戦犯を神として祀り、日本の首相がそこへ参拝することが、日本の戦争責任を否認する意味をもつことは明らかである。
なるほど靖国神社に参拝した戦後歴代の首相の中に、日本の戦争責任を公然と否認した首相はいない。小泉首相は、日本が「遠くない過去の一時期、国策を誤り、(中略)植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに対して多大の損害と苦痛を与えた」ことに、「痛切なる反省の念」と「心からのお詫び」を表した一九九五年の村山首相談話を日本政府の立場として確認し、戦争責任を否認する意図のないことを明言した。
しかし、靖国神社は公式に、「先の大戦」は「自存自衛の戦争」であり、欧米の植民地支配からアジアを解放するための戦争であった、したがって、A級であるとBC級であるとを問わず「戦犯」というのは「ぬれぎぬ」であり、戦勝国の一方的な裁きによって押し付けられた不当なレッテルにすぎないと主張している。実際、靖国神社は単なる追悼施設ではなく、戦死した軍人を「英霊」としてその功績を讃え、神として聖なる存在へと祀り上げる顕彰施設であるが、戦死者を顕彰するためには、その戦争が侵略戦争であったのでは具合が悪い。A級戦犯を祀る靖国神社に参拝するという日本の首相の行為が、日本政府の戦争責任認識に不信を抱かせたとしても、決して不思議なことではない。
さて、しかしながら、もしも靖国神社の歴史認識上の問題点をこのA級戦犯合祀問題だけにしか見ないならば、それは問題の矮小化であり、依然として「歴史の偽造と否認」を続けることになる。もしもA級戦犯合祀だけが問題であるならば、A級戦犯さえ靖国神社から外してしまえば、何も問題はないことになる。たしかに中国政府は日本との関係に関する政治的配慮から、問題をA級戦犯に限って解決を容易にしようとしてきた。それは外交問題を解決する方策として理解可能な立場である。ところが、日本の政治やメディアが靖国問題をこの水準でしか理解していないとすれば、すなわち、A級戦犯さえ外されれば首相や天皇の参拝には何の問題もないと考えるとすれば、そこには意識的もしくは無意識的に「歴史の偽造と否認」が働いていると言うべきである。
歴史の否認の第二は、「A級戦犯」という概念に寄りかかるところに起因する。A級戦犯とは、東京裁判で満州事変からの中国侵略戦争および太平洋戦争の戦争指導責任を裁いた概念である。満州事変の準備段階から含むので一九二八年一月から、一九四五年八月までの戦争責任が裁かれたのである。いいかえれば、東京裁判と「A級戦犯」という概念は満州事変以前の日本のアジア侵略の歴史を問わなかった。一九二八年当時、日本はすでに朝鮮・台湾を含む多くの植民地を有する植民地帝国であった。しかし、東京裁判で日本を裁いた連合国のうち、米国・英国・オランダ・フランスは植民地支配国であり、日本の植民地支配の責任を問う意思も資格もなかったのである。ところが、靖国神社には、一八七四年の台湾出兵以来、日本が周辺アジア地域を侵略し植民地支配を確立していった過程での戦闘における日本軍戦死者が一貫して祀られてきた。
台湾の植民地支配は、武装蜂起などで抵抗する中国系台湾人をまず軍事的に制圧し、次に台湾先住民諸部族の抵抗を軍事的に制圧して確立された。朝鮮植民地支配は、江華島事件(一八七六)以来の日本軍の軍事攻撃によって、義兵闘争など朝鮮人の抵抗を制圧して確立された。これらの過程で戦死した日本軍死者も、植民地独立運動を制圧するための軍事作戦で戦死した日本軍死者も、すべて「帝国」=「天皇の統治」の拡大に功績のあった「英霊」として靖国神社の神となっている。靖国神社は近代日本の植民地主義と完全に一体だったのであり、A級戦犯刑死後と同様これらの戦死者を今も顕彰の対象にし続けることによって、植民地支配の責任を今も否認し続けているわけである。
この第二の否認、すなわち中国侵略戦争以前のアジア侵略、植民地主義の否認は、いわゆる右派修正主義者だけでなく、朝日新聞や「進歩的知識人」などA級戦犯の戦争責任を認める側にも根深く存在していることに注意しなければならない。欧米列強に伍する地位を築いた「明治」は偉大だったが「昭和」になって日本は悪くなったとか、日清戦争、日露戦争までは日本軍は健全だったが中国侵略以降に堕落したといった「歴史観」は、NHKや朝日新聞を通して「国民的作家」となった司馬遼太郎の影響もあり、日本人のリベラル層にも広く存在しているが、そこに伏在する植民地主義の否認が靖国問題においてはA級戦犯問題への矮小化となって現われると言える。
A級戦犯問題に焦点を絞ることは、満州事変以後の戦争責任についても矮小化することになる。これが靖国問題における第三の「歴史の否認」である。その構図は、前記の富田メモ報道とそれに基づく議論に顕著だ。「A級戦犯が祀られたことへの不快感から昭和天皇は靖国神社参拝を止めた」ということが強調され、それが肯定的に評価されればされるほど、「すべてはA級戦犯の責任であって、天皇には何も責任がない」、という印象が強まっていく。
これは、米国の政治的思惑から昭和天皇を免責した東京裁判の構図と同じである。東京裁判が裁いたすべての戦争の期間を通して日本の最高責任者(統治権者)であり、何よりも日本軍の最高司令官(大元帥)であった昭和天皇が訴追を免れ、戦後も「日本国および日本国民統合の象徴」(憲法第一条)として天皇の地位にとどまることができたのは、占領統治に天皇を利用し、東西冷戦の中で日本の共産化を防ごうとした米国の決定によるものにすぎなかった。こうして隠蔽され、否認されてきた天皇の戦争責任が、A級戦犯問題を強調することによってあらためて否認されてしまうのである。
満州事変以後の戦争責任の矮小化は、天皇のそれにとどまらない。A級戦犯以外の指導層、マスメディアや知識人、文化人、宗教者や教育者を含む国民各層の戦争責任が否認されていく。A級戦犯を外せばことが済むのであれば、それ以外の軍人の責任も、靖国神社自身の責任も問われなくなってしまうのである。
ここで、靖国神社が支えた戦争の歴史的評価から、そこに祀られた戦死者の戦死という出来事に目を向けてみよう。すると、靖国神社は単に戦争の侵略性とその責任を否認する性格をもつだけでなく、戦死者の戦死を「名誉の戦死」としてまつり上げることによって、そもそも出来事としての歴史を否認する装置であることが分かる。
(後略)
(引用ここまで)
報道やほかの方の記事やコメントを並べただけの記事ですが、これらについて私の言いたいことの多くはトップにかかげた二つの最新記事でもすでに言いました。もう一度ここで繰り返すなら、次のようになるでしょう。
大日本帝国ははっきりと加害者でした。現在の日本での公的な慰霊行事において第二次大戦を語るにあたって、大日本帝国当時の日本自身の戦死者や原爆・空爆被害者の慰霊の前に、加害者としての大日本帝国が殺傷し侵略し破壊した中国韓国東南アジア諸国への言及とその被害への謝罪の表明がまず先にあるべきです。大日本帝国は戦争国家であったが現在の日本は平和国家であって本当に別物だと現在の日本国と日本人が主張するなら、そのことは絶対に欠かせません。そこで言葉を濁すなら、現在の日本国は大日本帝国と同じだということになるのです。
そして、アジア諸国の被害者への慰霊のためにも日本国内の死者の慰霊のためにも、靖国神社は舞台装置として明らかに全く不適切です。毎年夏になると起こる、被害国としての中国や韓国からの反発がそのことを物語っています。犯罪において被害者を納得させられない加害者の行為や言動は批判を受け続けるのと同じく、国家間の関係でも、被害国と被害国の人々を心から納得させられない加害国の行為や言動は批判を受け続けて当たり前です。
靖国神社は、そこに凝縮されている過去と現在の日本の弱点の拡大再生産装置として日本人の精神と思考に害を与え続けています。靖国神社は、現在の日本が大日本帝国と直結していることの象徴です。靖国神社があることによって、日本国が加害者であったことを現在の日本人に忘れさせる装置がいつも稼働しているようなものです。そのおかげで、第二次大戦への反省を忘れた開き直りの態度が年を追うごとに日本に目立つようになっているように私には見えます。
そのような靖国史観は、大日本帝国を引き継いだ現在の日本国の致命的弱点の一つであると思います。
最後にもう一言...。
自分は大失敗の原因や加害者でもあることを忘れて完全に被害者であるかのように思い込み、反省を忘れる日本国と日本人。日本国と日本人のその傾向は歴史認識だけではなく、ほかのいろいろな分野にもあらわれているようにも思います。原発事故とその後の放射性物質の垂れ流し状態についての日本政府や核発電推進原理主義組織の振る舞いなどがそれにあたると思います。
公開前の追記。うちでは過去にも靖国神社についての記事をかなり書いています。その中の一つをリンクします。よろしかったらどうぞ。
■裁判所が「靖国教」の奇妙さをまた世界に広めている。(沖縄靖国合祀訴訟・一審判決)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-2072.html
2010-10-29
(前略)
遺族は、自分たちの名前が靖国神社という他者の行為のために勝手に使われていることに抗議しています。遺族は精神的苦痛を受けていると言っており、その気持ちは、沖縄の歴史的いきさつから見ても、全面的に納得できるものです。他者の心の平安にこれほど無頓着な「靖国神社」など、全く宗教の名に値しません。単なるハラスメント団体と同じようなものです。(実際、靖国神社は靖国思想への共鳴をもとにしたハラスメントをすることを愛国心と勘違いしている人々を生み出しています。)
そのように、常識の通じない靖国神社という相手だから、原告は仕方なく法的救済を求めたのです。それを「他者の宗教的行為に不快な感情を持つとしても、法的救済を求めることができるとすれば相手の信教の自由を妨げる」という理屈で退けるなんて、この裁判官の常識に疑問を持ちます。残念なことに、以前の判例にもそのようなものはたくさんあり、この平田直人裁判長だけの問題ではないわけですけど。
「国の情報提供は合祀に一定の役割を果たした」と認めているのに、「戦没者についての照会への回答は時代の要請に応じた行為で、宗教的な色彩はない」と判断して、「国が合祀を推進したとは言えない」と結論するなんて、私でもその非論理ぶりがわかります。国が合祀に役割を果たしているのに、その責任を免罪しているわけです。さらに言えば、裁判所も合祀に一定の、いえ、かなりの役割を果たしていますよ。
世界にある数多い宗教の中でも、信者でもない人を勝手に自分たちの宗教行為のために利用して、その心の平安を乱す失礼な宗教というのはちょっと想像できません。そして、そのような、他人が嫌がることをやる「宗教行為」に矛盾だらけの判決でお墨付きを与える裁判所というのも世界広しといえども珍しいでしょう。靖国教とはそれほどまでに常軌を逸していると言えます。日本の裁判所というのも靖国問題に関しては常軌を逸していると思います。世界のどこの国でこんな「宗教行為」が当たり前のように行なわれているでしょうか。そして、それが裁判所によって承認されているでしょうか。それだけ考えれば、わかることではないでしょうか。
合祀してくれるなと訴える人の名前を合祀からはずすことで靖国神社側にいったい何の不利益が発生するのでしょうか?靖国神社は、合祀されたい遺族だけを対象に「宗教行為」をすればいいのではないでしょうか。なぜそれができないのか、全く不可解です。
(後略)
(引用ここまで)
●国会議員への投書のための「議員名簿」→
http://www.eda-jp.com/link/link1.html●マスメディアへの投書のための「News for the people in Japan」マスメディア問い合わせ用リンク集→
http://www.news-pj.net/link/media.html●他の社会系ブログに行くにはうちの「私的リンク集 (適宜更新)」経由で→
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-136.html
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口から出まかせの世襲バカ太郎を許さないと言う意思表示の為にも、みんなで返納しましょう。
私は、そもそも作っていませんが…K.Mina虚偽答弁で首相が議員辞職までいくイギリス。虚偽答弁や答弁拒否でますます安泰な自民党幕府。どちらがまともかを論じるまでもありません。やはり、民主主義の国では無い羨ましい限りです。
戦後最悪最低の総理大臣安倍晋三の国葬までやった日本は、民主主義の国では無いのですね。
まあ、イギリスも問題は沢山あるとは思いますが、日本よりはK.Mina虚偽答弁で首相が議員辞職までいくイギリス。虚偽答弁や答弁拒否でますます安泰な自民党幕府。どちらがまともかを論じるまでもありません。No title『虚偽答弁で首相が議員辞職までいくイギリス。虚偽答弁や答弁拒否でますます安泰な自民党幕府。どちらがまともかを論じるまでもありません。』に対する意見
http://muranoewkefc山本太郎議員(れいわ新選組)への懲罰動議はバランスを欠いており妥当ではないだけでなく、民主政治を殺す暴力である。No titleこれで懲罰動議と驚かされました。
わざと殴った、怪我をするように行動したとでも言いたいのでしょうか。
何処かの誰かが嘯いた免責特権云々の方が、力の暴力より言葉の暴月風狼強制ではなく任意のはずのマイナカードで他人の年金記録が閲覧可能という自民党政府の異次元の「サービス」No titleもはやセキュリティの体を為しておらず、とてもDXだなんちゃら言うのも恥ずかしいレベルです。
一般企業でこんなことが起こったら、通常業務が止まて対策に追われるレベ月風狼自国維公が強行採決した入管難民法は人権無視の反民主的法律であり、日本の国際的地位を傷つけるもの。No title 日本維新の会と国民民主党はもはや翼賛野党と称すべきレベルの存在ですが(実質与党の別働隊)、およそ最低限の人権感覚もないという醜悪な一面をさらけだしました。まともクテシフォン山本太郎議員(れいわ新選組)への懲罰動議はバランスを欠いており妥当ではないだけでなく、民主政治を殺す暴力である。No title 免責特権を盾にしてウィシュマさんとその遺族、支援者に悪質な誹謗中傷を行った維新の梅村議員に対しては何のお咎めもなしで、人の命を奪いかねない法律の強行採決に反対クテシフォン山本太郎議員(れいわ新選組)への懲罰動議はバランスを欠いており妥当ではないだけでなく、民主政治を殺す暴力である。No title懲罰以前に(だからこそ)この「ヒゲの隊長」何某の暴力は、懲罰当然、というだけでなく、法罰相当の「暴行罪」、もしケガをさせていたら「傷害罪」が成立する刑行為でしょう津木野宇佐儀強制ではなく任意のはずのマイナカードで他人の年金記録が閲覧可能という自民党政府の異次元の「サービス」>ブログ主さん
>個人情報をIT業者に売り渡すシステムによる自分たちのマイナ利権
まったくこれに限りますね
アベ以降、あからさまに「利権、何が悪い?」と、独裁津木野宇佐儀山本太郎議員(れいわ新選組)への懲罰動議はバランスを欠いており妥当ではないだけでなく、民主政治を殺す暴力である。 そもそも、先に実力行使をしたのは「被害」にあったとキーキー騒いでる自民党議員じゃないですか?強行採決をさせるために委員長を守る盾の役割を買って出たわけでしょう左の人山本太郎議員(れいわ新選組)への懲罰動議はバランスを欠いており妥当ではないだけでなく、民主政治を殺す暴力である。No title『山本太郎議員(れいわ新選組)への懲罰動議はバランスを欠いており妥当ではないだけでなく、民主政治を殺す暴力である。』
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entewkefc「所得の不平等の原因と結果:グローバルな視点」という論文が経済格差の拡大は経済成長を止めると示唆している。自民党の日々の政治が日本の経済成長を止めていると認識しましょう。グローバル vs ローカル?続けての投稿、すみません。
「グローバル」は、ローカルがあってこそ・ローカルに資するもの(←言い方は他にもいろいろあるだろうけど)、でないといけないと思います。
一津木野宇佐儀「所得の不平等の原因と結果:グローバルな視点」という論文が経済格差の拡大は経済成長を止めると示唆している。自民党の日々の政治が日本の経済成長を止めていると認識しましょう。コンパクトかつ地域循環!!格差はもう行きつくところまで行ってしまったかな、と地方・田舎から見ていて思います。
経済、だけでなく教育、人口等は昔から大都市圏、特に首都圏に集中していて、地方(津木野宇佐儀入管難民法改悪案阻止のため立憲民主党が法務大臣への問責決議案を出したことを評価する。#立憲ボイス @izmkenta @saito_yoshitaka #改悪入管法の強行採決反対冷笑系…>アンドリュー・バルトフェルドさん
「冷笑系」の人々がいつでも転落するのが今の日本の状況だと、泥臭くても言い続けていく必要はあるかと思います。
私自身うつ病で挫津木野宇佐儀軍拡財源法案は許せない。軍拡財源法案に強く反対しない立憲民主党は軍拡反対の有権者に支持されたくないのか? いわゆる私のような生粋の左翼に「支持されたくない」のは本当でしょうね。
左翼票を喪っても連合の組織票と冷笑系の浮動票で挽回できると踏んでいるのでしょう。左翼左の人「江戸しぐさ」という歴史偽造 (メモ) 江戸しぐさなどと揶揄される江戸時代はそんなにひどかったのか。 江戸時代は暗黒の徳川家専制の時代,明治はその暗黒を取り除いたと明治政府は公言しました。たしかに江戸時代は言論の自由も表現の自由もなく,身分制度もあり素晴らしいTakeshi東京都人権部は、過去にあった凄惨な人権蹂躙を検閲して隠すという歴史への蛮行を、税金を使って始めた。強く抗議します。カチンの森事件の隠蔽という悪事 日本に酷似 1940年4月,5月に25000人以上のポーランド市民がソ連内務人民委員部(NKVD)によって銃殺されました。犠牲者は大部分が陸軍将校であったものの,知識人,大学教授,学校Takeshi法的根拠のない「国葬」を日本国民が止められないなら、自民党による戦争や暴政を止められるのだろうか。だから #国葬反対 #今からでも国葬中止を #国葬を国民の力で葬ろう権力者は身の危険に対して鈍感 安倍晋三は,たしか身の安全をはかるようにと国会で野党議員から助言されていたかと思いますが無視しました。岸田文雄も安倍の前例があるにもかかわらず,まさか自分が狙Takeshi#奪マスク #脱マスク を他人に強制しようとするな。徹底的に抵抗する。まだまだコロナには注意が必要,マスクも必要私の先輩で高齢の友人が新型コロナに感染しました。夫婦二人暮らしで推奨されるワクチンはすべて接種していました。喉に死ぬほどつらい痛みがあり,何をする気力もなく,こTakeshi入管難民法改悪案阻止のため立憲民主党が法務大臣への問責決議案を出したことを評価する。#立憲ボイス @izmkenta @saito_yoshitaka #改悪入管法の強行採決反対冷笑系を唾棄したいFAXによる請願で、件の政策秘書と同様に「そんなのをやっていたら市民運動の言うことを誰も聞かない」などと喚き散らすのが見られます。
そういう冷笑バカは、「対案を出アンドリュー・バルトフェルド小規模市民運動のためのヒント(メモ)No title「サイレント」と聞いてグレタ・トゥーンベリさんが真っ先に頭に浮かびます。
彼女は一人で運動をはじめ、それが世界にまで広がっていった…すごいですよね。津木野宇佐儀「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」はずなのに拷問を行なう入管は憲法違反。解体・廃止が妥当。No title『「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」はずなのに拷問を行なう入管は憲法違反。解体・廃止が妥当。』に対する意見
http://muranoserena.blog91.fc2.ewkefc国会前で #入管法改悪に反対 した5500人(2023年6月5日)No titleでも
5500人の方々が集まってくださったことは、一筋の光明だと思います。
地方在住でパニック発作もあり、なかなかデモには参加できないのですが、地方からもできるだ津木野宇佐儀「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」はずなのに拷問を行なう入管は憲法違反。解体・廃止が妥当。No title全くそうですね。
戦後の長年の保守政権、その流れをくむ自民の憲法軽視(アベ以降は憲法無視!)が、戦前からの「拷問及び残虐な刑罰」的体質を矯正するどころか、許し続け津木野宇佐儀「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」はずなのに拷問を行なう入管は憲法違反。解体・廃止が妥当。No title もともと入管当局というのは特別高等警察の残滓みたいな組織でした。周知のように特高とは大日本帝国の暗黒面を代表するような組織であり、多くの人々を拷問にかけ痛めつクテシフォンまた核発電所大規模事故を招くもとになる可能性のある原発回帰推進法の自国維公による可決に抗議する原発回帰推進法の可決に強く抗議する選挙で信を問うこともなくGX脱炭素電源法が政府与党とその補完勢力である維国の賛成で可決されました。
GX脱炭素電源法とは名ばかりその実は原発回帰推進法そのもので閉口#入管法改悪に反対 #法務大臣の問責決議を #法務大臣の解任を #改悪入管法の強行採決反対 つまり、国際的に当たり前の人権政策を日本政府に求めているだけです。#改悪入管法の強行採決反対入管法改悪をめぐって政府与党の問題が次々と明るみに出ています。
難民審査「1年半で500件」は可能なのか、不可能なのかについて齋藤法相は答弁を180度転換、ただただ閉口閉口#入管法改悪に反対 #法務大臣の問責決議を #法務大臣の解任を #改悪入管法の強行採決反対 つまり、国際的に当たり前の人権政策を日本政府に求めているだけです。No title立憲は、「てめえを踏みつけている奴らに媚び売ってどうすんだ」というのを何度も思います。
泉が平熱パニックおじさんの番組で飲みながらヘラヘラやっていたし、枝野がプアンドリュー・バルトフェルド津野香奈美著「パワハラ上司を科学する」(ちくま新書)No title日本では「上司」=管理職が何たるものかが理解されずにずっーと来ましたよね。
「仕事ができる=管理職=出世」ではなくて、労務管理能力のある人が管理職なんですけど。津木野宇佐儀デモの精髄を、フランスの年金カイカク反対デモに学ぶ。「もし私たちが私たちの両親の年金のために闘わなかったら、誰が私たち自身の年金のために闘ってくれる?」 (2)No title日本でもかつて「売上税」阻止をデモとメディアの攻勢で廃案に持ち込んだことがありましたよね。
本当は日本でもできた・「できる」ことなのですが…
日本国、否、自民国JAP津木野宇佐儀