コメント
メディア最大のタブー「電通」は日本人を洗脳し続けた黒幕だった!?
http://www.cyzo.com/2012/02/post_9921.html
(前略)
――電通は、ある意図を持ってテレビをコントロールしているのですか?
苫米地 そう。一例として、『洗脳広告代理店』の中では、米国巨大金融資本の依頼を受け、「郵政民営化」の流れを作る上で電通が動いていたという説を紹介している。このことを指摘した政治評論家の森田実さんは、その後、テレビから干されてしまった。森田さんは、その裏では莫大な金が動いていた、とまで指摘しているんだ。実際、今から振り返ると、小泉政権が大勝した2005年の"郵政選挙"の時の日本の空気は異常だった。あれは、小泉さんのパーソナリティが突出していただけでなく、テレビを中心としたマスメディアが、郵政民営化を是とする空気を作り出していた。その証拠に、当時、自民党に投票した人に聞いてみるといいよ。「郵政民営化のメリットはなんですか?」って。ロジカルに答えられる人はほとんどいないはず。あの時は、多くの人が論理を抜きに郵政改革を支持してしまったんだ。テレビの洗脳的効果が発揮されたんだよ。
――『洗脳広告代理店』では、米国と電通の関係にも踏み込んでいますね。
苫米地 推測を絡めてだけど、電通が郵政民営化を含め、なぜ米国の意向を汲んだ動きをするのかを、歴史的事実をもとに言及している。かなり大胆に踏み込んで書いたよ。そこはぜひ本書で確かめてほしい。ここまで書いたら、私は二度とテレビからお声はかからないかもね(笑)。
――出版後の反響はどうですか?
苫米地 電通社員の知り合いも多いんだけど、この本を読んで、本質的な反論をしてくる人はいないよね。自分たちのしている仕事の不条理さは、当事者としてわかっているんだろう。と同時に、問題があるとわかっていても、彼らにはどうしようもないというあきらめもあるみたい。ただ、私は本書の中では、電通や広告業界、メディア業界、そしてそれに対峙する国民の今後のあるべき姿も提示している。権力者側にいるメディアを取り戻すために、ぜひ国民一人ひとりが考え、行動をするためのきっかけにしてほしいんだ。
Amazon.co.jp: 電通 洗脳広告代理店: 苫米地英人: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4904209192
消費税増税/GDP2.5%低下、雇用115万人減/日本経済“奈落の底”
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-22/2012022201_02_1.html
非正社員の比率35%、過去最高を更新 11年 : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2012/02/22123020.html
--
独裁者のハシスト党を礼賛する、メディアの最近の傾向とも、関連しているかもしれない。
コイズミ改悪の再来か。
競争原理というより競争原理主義ですか
教育に競争は必要かというと、私は必ずしも必要だとは思いません。ただし手段としては有効な場合もあります。「競争が必要か否か」という論を見ると、世界はそんなに単純なのかと疑問に思ってしまいます。競争は「原理」ではないというのが私の考えです。
では教育に何か「原理」のようなものがあるかというと、正直なところよく分かりません。分からないけれど、とりあえず今の私が「これか?」と思っているものはあります。本人を肯定することです。
これも言葉にして説明するといろいろ難しく、取りこぼしが出てしまうのですが、本人の人格をとにかく否定してはだめです。「どうせ自分なんて」と思われてしまったら、教えているこちらの失敗です。
子供たちの人格を全肯定するっていうのは、「無理やり褒める」とか「叱らない」とか「宿題を出さない」とか、そういう安っぽいものではありません。教える側はものすごくリソースを消費します。だから学校では難しいでしょうし、取り組まれている先生には頭が下がります。
本人が競争をよろこび、それで自信をつけてくれて能力も上がるなら、手段として競争を取ることは私もあります。でもその場合には、競争相手はどう思っているのかとか、負けた側が必要以上に落ち込んでしまわないかとか、あれこれ考えます。こんなに慎重に当てはめなければならないものが「原理」なのか? というのが素朴な感覚です。「別れろ原理」を持ち出して、恋愛相談には全て「別れろ」とアドバイスする、くらいの乱暴さを感じます。
また、確かに世は競争に満ちていますが、世の競争に勝つ力は、児童生徒のうちに自分も競争することによって身につくものでもないと思います。それよりは、自分に自信を持つことの方がよほど意味があります。競争そのものを多く体験するより、成功体験を積んだ方がずっといい。そのほうが、競争に勝てる力につながるはずです。「競争で勝たないとだめだ」というのは、負けたらお前は認められない、というメッセージを発することでもあると思いますが、そんなこと私には怖くてとてもできません。わざわざ畏縮させ、やる気をなくさせてどうするんですか(ただしそれでやる気が出る人もいるので、そういうときには競争を煽ります。難しいです)。
そもそも世の「競争」というのが、社会人(?何それ)になって経済的に勝つことに限定されすぎているのも、私としては違和感があります。確かに必要なこととは思うけど、人の世はそんなに単純じゃないのです。経済的に豊かにならないと幸せになれないのは事実ですし、認めます。一方で、経済的に勝つことだけをよしとする(あるいはそれが教育の最終目標になる)ような社会って、あまり幸せそうな感じがしません。だってそれって、経済的に貢献できなくなったら存在意義がなくなる社会なわけでしょう。
こんなに複雑で多様な世で、人間というこれまた複雑で面白いものを育てているのに、教育で教えるのが経済競争に勝つ方法って、ちょっと貧弱すぎませんか。それにそういう教育は、そもそも世の競争が熾烈すぎる(負けたら本当に死ぬ)ということに対する批判の可能性を失くしてしまうことになると思います。現実を受け止めて対処するのと、現実を肯定するのとはぜんぜん違いますし。
子供たちが自分を肯定的にとらえるようになると何がかわるか。実感として彼らは「しゃべる」ようになります。つまり自分の意見を(あくまで本人基準で)堂々ととこちらに述べるようになります。こっちはそうなると小躍りしたくなります。話を聞きながら絶対に相手を頭ごなしに否定しない、こっちはなるべく話をしないで聞き役に回る、そうしてさらに本人の自己肯定感(ああ、聞いて貰えてるなあ、という気持ち)を高めます。そして相手の発言に感動したことを隠さず(感動しているのだから普通にすればいいのですが)、相手を褒めながら(必ず褒めるところはあります)、こちらから反論する。そういう練習を繰り返していくと、それこそコミュニケーション力も上がるし、合理的な考え方も身についていきます。
直接的には、こういうのがいわゆる競争力につながるはずです。だって「自分で考え、その意見を人とすり合わせることができる」って重要でしょう。自分に自信がなかったり、トンチンカンな発言をしたと叱られた体験を持っている人にはこういうことは難しい。で、こういう能力が競争で身につくとはとても思えません。
このタイトルを観て、個人的に大変懐かしく感じました。
少し私の高校時代の話をさせてください。
私が通っていた大阪の府立高校は大変ユニークな学校でした。
高校生活の目標を「学習」「クラブ活動」「ホームルーム活動」の三つの柱の鼎立とし、特に「ホームルーム=自治活動」の充実という点に特徴がありました。
つまり、高校入学後間も無くある「遠足」から最後の「卒業式」に至るすべての行事が基本的には生徒達自身によって計画、運営される、ということです。
そしてそれらは、「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という精神と、「全員で徹底的に討論し、最終的に決定した事は全員で守る」という民主主義の原則に則ったものでした。
中でも、最大の行事である「文化祭」では「戦争と平和」「人権」「差別」に関する様々な「社会問題」について、読書やフィールドワークによって学習を深めた内容を展示発表しました。
そのことを通じて、過去の侵略戦争における加害事実や「日米安保」の矛盾、「在日」や「身体障害者」等の社会的マイノリティへの差別の歴史と実態を知るきっかけになったのです。
勿論、それらの運営が全て順調であったわけではありません。多くの困難、対立、葛藤がありました。
しかし、それらを乗り越えて成し遂げた時の充実感と感動は、私の人生の中でも他と比べようのない得難い経験と言えます。
その頃に「競争原理を超えて」を「参考図書」として読みました。
ある意味、私の高校三年間は「競争原理を乗り越え」る為の挑戦であった、と言えるかもしれません。
何十年か振りに、もう一度読み直してみようかな。
おかねの公共性120205
利己性と利他性120218
かけ算の順序
ここ数年、ごく一部の界隈で「第n次『かけ算の順序』論争ブーム」だそうで。
それにしても、遠山啓が「順序派総本山」だと誤解している人が多いのには正直驚かされました(遠山啓のことを少しでも知っている人は、こんなこと想像もしないと思うのですが)。
これについて、「遠山啓は『かけ算の順序』についてどう考えたか」というブログを書かれている方いらっしゃいましたので紹介します。
>http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html
現在多くの小学校では、学習指導要領に従い、かけ算について「ある一方の順序」しか認めません。
しかしこの問題は、
「『考えること、試行錯誤すること、自力でできること』よりも『あらかじめ決められた不当なルール通りにできること』に価値がある」とする点、
「『国際ルールの存在』を無視して『ローカルルールの刷り込み』に固執する」点、
そしてなによりも「『本質』よりも『強制』を優先させる」点において、
君が代・日の丸の強制と相似形です。
「数学教育」を「愛国教育」の露払い役としてはなりません。
平和運動にもかかわっていた遠山啓が、今の教育現場を見たらなんと言うでしょう。
「数学の本質は、その自由性にある」とはカントールの言。
この場合の「自由」とは「どちらを『1あたりの数』とするか」。
しかし、「ある一方しか「1あたりの数」として認めない」ということは、その「自由を学ぶ」恰好の材料である算数/数学教育に対する「不当な政治介入」なのです。
最後に、遠山啓著「いかに生き、いかに学ぶか」について書かれたものとして↓をご紹介。
http://maimai3.dreamlog.jp/archives/51634109.html
http://maimai3.dreamlog.jp/archives/51634181.html
かけがえのないこの自分
私のコメントを取り上げてくださってありがとうございます。今思うと私の中学、高校時代は「受験戦争」は現在よりも激しかったように思います。親である昭和一ケタ世代はまだ、大卒の学歴を持つ人はまれで、高卒も少なかった。それが高度成長で豊かになり、子どもたちを進学させる余裕が出て来た。また、「良い高校→良い大学→大企業→高所得→生涯安泰」という、現在、かなりひび割れて来ているとはいえ、いまもなお、多くの人たちに信奉されてる価値観が急激に広まったころでもありました。私の育った県は東京のベッドタウンとして人口が急増し、あちこちに団地が出来て、子どもを持つ若い家族がたくさん引っ越してきました。しかし、公立高校の数はまだ少なく、志望しても高校に進学できない「中学浪人」まで出てしまうありさまで、公立中学の教師たちも自分のクラスから浪人生を出すまいと血眼になっていました。
民間の学力テストである「北辰テスト」というものが、しばしば学校で行われ、それに従って出る「偏差値」が事実上、どのランクの高校(大学)を受験できるかを決める指標であり、つまりはその人の将来の人生の“クォリティ”を、その人自身の価値さえをも決めるかのように思われていたものです。(今思えば、馬鹿げたことですが、当時は笑いごとではありませんでした)
私の通った公立中学は元々田園風景の中にあるのんびりした学校だったのですが、私が入学したころには、近くに大きな団地が二つも出来たこともあって、急激に「受験校化」してしまいました。学年が進むにつれて、皆が偏差値ばかりを気にするようになり、「おまえの今の偏差値なら、(進学先は)この高校になるぞ」とか、偏差値だけで教師に決めつけられるのも嫌でした。私は初めのころは、成績は悪くはなかったのですが、そんな雰囲気の中で授業を受けるのが嫌で、次第に教科書の後ろに隠して好きな小説ばかりを読みふけるようになり、成績はどんどん下がりました。卒業するころには、高校に進学する気も無くしていたくらいだったのですが、当時の雰囲気の中ではそれも許されず、(その地域において、高校に進学しない子はほとんど「例外的な存在」になっていました)なんとかある高校に滑り込んだものの、そこがまた、旧制中学の後身である伝統校をライバル視する「後発の進学校」で、教師たちは一人でも多く名門大学に送り出すことを目標にして、生徒にハッパをかけていました。
そんな頃、私はふと疑問に思ったことがあります。
「結局のところ、試験のため(競争に勝つため)に学ばされている知識などは、“知性”とは何の関係もないのではないか?」と。
「人間の“本当の知性”は、このようなやり方では育たないのではないだろうか?」
漠然とそのような疑問を持った記憶があります。そして後に遠山啓さんの『競争原理を超えて』を読んだ時、その直感はある程度、当たっていたのではと感じました。
ところで、この前のコメントを書いた後、『競争原理を超えて』について検索していたら、作家で、数学に関係する著作もある金重明さんのブログに行き当たりました。やはり、30年ほど前にこの本を読まれていたようですが、私の感想などよりはるかに優れていると思うので、ご紹介します。
金重明のブログ 遠山啓著「競争原理を超えて」
http://ameblo.jp/europa2718/entry-11096200725.html
金さんは、残念ながら遠山さんがこの本の中でした予言(願い)が外れてしまい、その後の日本がますます、競争原理に励んできたこと、そして当時よりも社会の中の格差は広まってしまったという現実を踏まえつつ、大阪維新の会の教育基本条例案を批判しておられます。
>y さん
y さんは学校の先生なのですか。私は教師ではないので、実際の現場のことはわかりませんが、それぞれの先生に理想はあっても、現場でそれを追求していくのは難しいことなのでしょうね。それでも、「現実はこうなのだから」と諦めてしまわずに、生徒さんたちと真摯に向き合おうとする先生が、今もこの国に居てくださることは、とても頼もしいことです。(自分のことを省みますと、そうした数少ない先生との出会いは、今も心に残ります。)
ところで、y さんのコメントを読んでいて、遠山啓さんのもう一つの著書、『かげがえのないこの自分』という本があったことを思い出しました。題名の通り、それぞれの青少年たちに「この宇宙でただ一つの、かけがえのないこの自分の存在」というものを発見して、それを大切に生きていってほしいと願って書かれていたように思います。内容を少しご紹介したいのですが、現在、私の手元にはないので、具体的なことを思い出せません。
検索したら、こちらのブログで紹介されていました。
「手作りの自由学校」訪問記 ヨーロッパ編
かけがえのないこの自分 ~遠山啓~
http://blogs.yahoo.co.jp/nonoeda2007/49207921.html
(引用された部分は、ともすれば自己否定に陥りがちな現代の高校生に向かって、遠山さんが書いた手紙という形式をとっています。)
ところで、このブログは現在更新が止まっているようですが、その前々回のエントリーを読むと、ブログ主さんはなんと、
>状況は・・・ただいま話題に登っている大阪府内の、とある公立学校内へ「学力向上のために」と9月から派遣された講師が、私なワケで・・・いわゆる「少人数指導」の5年算数を受け持っている。
という方でした。(日付は橋下氏が大阪府知事に当選した年、2008年の12月です)
なめぴょん
売上やシェアは確かに社員の士気向上や投資家への説明はしやすい。しかし先日話を聞いた大学教授によると、1960年代からの日本の一部上場企業の売上と利益を調査したところ、売上は一貫して拡大してるのに対し、70年代以後売上と利益は連動しなくなった。
いくら売っても利益は出ない。これでは本末転倒。
利益が取れなければ無理に競争に参加しない企業は着実に業績を伸ばしている。
それが社員、顧客、投資家、あらゆる関係者にとってハッピーなんです。
過剰な競争は人を幸福にしない。
それこそヴァーチャルな自己満足にすぎない。
商売には競争の面もあるけど、究極的には「共生」なのです。
>みなさん
>風鈴草さま
>実際の現場のことはわかりませんが、それぞれの先生に理想はあっても、現場でそれを追求していくのは難しいことなのでしょうね。それでも、「現実はこうなのだから」と諦めてしまわずに、生徒さんたちと真摯に向き合おうとする先生が、今もこの国に居てくださることは、とても頼もしいことです。
私もそうありたいと強く思っています。
現場ではいろいろ考えることもあるのですが、「葛藤」しない人にだけはならないようにしよう、「葛藤」からは逃げないようにしよう、と気をつけています。
ある教育産業の会社の面接で、そこの室長に「私の目標はビジネスで成功することです」とはっきり言われ、ここでだけは働くものかと思いました(ちなみにその室長は私の面接の途中、通ってくる生徒の層について「まるで動物園みたいです」と説明していました)。
ビジネスでの成功を目指すことは別に悪くありません。ただ、その自信たっぷりな感じに恐怖を感じました。多少なりとも教育産業と関わって、子供たちと向き合ってきた私からしてみれば、そういうことを何の葛藤もなく断言するのは信じられませんでした。
この講習を受講させれば当方は潤うが、生徒にはあきらかに不要だと思う時にはどうするのか。
あの学校に受かれば確かに宣伝にはなるが、それってその子の幸せにつながるのか。
こういう指導をした方が絶対にいいのだが、こちらのリソースには限界があって難しい。逆に適当に手を抜いて「こっちは精一杯やりました」と説明しても保護者にはばれない。ではどうするか。
自分はこの方針がいいと思うが、自分のいる組織はそれに反対している。だが子供のことを考えると組織のやり方ではだめだ。どうするか。
そういう場面はたくさんあります。彼は一度もそういうことを考えたことがないのでしょうか。特に組織と現場の板挟みになって苦悩した様子が感じられないのにはがっかりしました。
茨木のり子の有名な詩のこの言葉を思い出します。
--------
大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
(汲む -Y・Yに-)
--------
この仕事に慣れたと思い始めた時が、私の堕落の始まりだと思っています。長くしていればある程度のノウハウは身につくでしょうが、それはただの技術でしかありません。
別に組織の利益と子供たちの教育の相反だけではなく、あれこれ考えなくてはならないことは山のようにあります。何せ人間相手の仕事です。ルーチンワークなんかでは絶対にできません。ボスも「授業準備はちゃんとしろ、だが絶対に準備はするな」と新人指導をしています。現場なんてアドリブだらけです。
私のいるところは寺子屋規模ですから、目の前の生徒は1人(多くて3人程度)。そして週に1コマのおつきあいです。それでも生徒と向き合い、相手のことを真剣に考えながら教えるのは難しいものです。実は今日も、私がちゃんと生徒のことを見ていないとボスから指導を受けて、たった今しょんぼりしながら帰って来たところです。ですから風鈴草のおっしゃるように、学校で真摯に取り組まれる先生というのには本当に頭が下がります。すごいことだと思います。
私の人生は先生運(という言葉はたぶんないでしょうが)に恵まれたようで、習い事でも学校でも塾でも、そんな真摯な先生方に教わることができました。私もそういう指導をしたいものです。
国会で答弁した当時は(佐川宣寿は)財務Takeshi自民党・豊田真由子衆議院議員が秘書に加えた暴力がすさまじい。高学歴モンスター 精神科医である片田洙美氏が「高学歴モンスター 一流大学卒の迷惑な人たち」(小学館新書)で豊田真由子元衆議院議員のことを的確に分析・整理していたので紹介します。Takeshi天皇制は日本国民分断の象徴だと思える。君主主義と民主主義は両立するのか。 天皇機関説が論争になっていたころ,天皇陛下を機関車に例えるとはなにごとか,と憤慨した人がいたそうです。今で言うネトウヨのさきがけでしょうか。
渡辺錠太郎教育Takeshi日米貿易協定(日米FTA)は将来、日本の産業と国民生活の多くの面に悪影響を及ぼす。反対。ローマ法王が来てますね。ローマ法王がいま来てさんざんテレビに出てますが、何故、核を落としたかが問題です。朝鮮半島が分断したままであるのは、核の投下があったからだと私は考えています。柿ノ木潜蔵日米貿易協定(日米FTA)は将来、日本の産業と国民生活の多くの面に悪影響を及ぼす。反対。韓国と北朝鮮。韓国とは、日韓併合前の状態に戻そうとして大日本帝国から独立した勢力であり、北朝鮮とは、日韓併合後の大日本帝国の状態をそのまま維持しようとする勢力なのかと私には思柿ノ木潜蔵。日本における愛国者のお手本No title>>#日本の愛国者は他人の財産、生活、生命、思想を犠牲にして自分の利益を増大させることができなければならない。
非常に的を射ていると思いますが、あえてもう一どんぱ嫌韓の代償を払う日本日露戦争開戦前、韓国は中立を表明していたが、日本は開戦後に韓国に戦争の協力を求め、第一次日韓協約を締結する。日露戦争後に結ばれたポーツマス条約で日本は韓国に対する指柿ノ木潜蔵。ある素敵な国歌No titleコメントの皆様も含めて、すごく興味深く読ませていただきました。
私も、30年近く前に、一度だけ生で歌と踊りを聞いたことがあります。子どもにしてはチケットが高価でDANGER MELON嫌韓の代償を払う日本差別をする人差別をする人は、それだけで十分幼稚ですので、経済とか立地条件とか、商売とか、難しいことわかんないんですね。
小学生でも差別は最低だって、知ってるんですけどね。DANGER MELON日米貿易協定(日米FTA)は将来、日本の産業と国民生活の多くの面に悪影響を及ぼす。反対。国民の生活は破壊されます安倍自民党政権が進める日米貿易協定(日米FTA)によって日本国民の生活はどうなるか。
弱肉強食、格差拡大に拍車がかかりその結果、
ホームレスor行き倒れ等の餓死者or刑閉口日米貿易協定(日米FTA)は将来、日本の産業と国民生活の多くの面に悪影響を及ぼす。反対。日米FTAについての記事ありがとうございます日米FTAについて、いろいろととりあげていただいて、
まことに感謝します。
ありがとうございます。
良い仕事しています。
お忙しいなか、おつかれさまでした。かせだ勝太嫌韓の代償を払う日本朝鮮人に恣意的に日本国籍を付与・剥奪してきた日本政府 1910年の韓国併合により,朝鮮人は自らの意思にかかわりなく日本国籍を持つ「帝国臣民」として取り扱われることになりました。
日本政府は朝鮮戦争勃発後,在朝日本人Takeshi嫌韓の代償を払う日本日米FTAはどうしました?日韓関係の事も大いに取り上げたらいいと思います。
しかしながら、以前貴ブログで何度か取り上げたはずの、日米FTA、いままさに国会で、衆議院本会議で11月19日にも採決さかせだ勝太日本政府・行政お抱えの広報機関となっている、笑えない吉本興業NHKなど主要マスコミ桜を見る会の報道については、こちらなどではアベチャンネルなどと揶揄されるNHKが意外と頑張っているという見方を見ることがあります。
今、とても大切な押し切れるかもsuterakusoローマ法王が元従軍慰安婦の被害者女性と面会ローマ教皇フランシスコまもなく来日 ローマ教皇フランシスコがまもなく来日するにそなえて,学校法人上智学院は2019年10月26日にマスコミを対象としたミニ講義と質疑応答を上智大学で実施しました。答えたのTakeshi首相になった63歳児ちょっと作ってみました。 ちょっと俳句を作ってみました。、
季語がないのはご容赦ください。
・ 野次言うな こんな人たち 拘束し
・ 野次言うぞ 安倍が手をすり 足をする
・ Takeshi鳥取県の女性差別的婚活パンフヨルダンにおける女性を抑圧する男性後見人制度に関心を持とう。 ヨルダンにおいては,女性が婚外での性交渉や後見人の許可を得ない無断外出をすれば,当局に拘禁されたり「処女テスト」を強要されるおそれがあります。婚外で出産すればTakeshi嫌韓の代償を払う日本「在日韓国・朝鮮人」とは 金村詩恩さん(1991年生まれの日本籍在日コリアン3世)が次のように述べています。
「わたし,『北朝鮮』じゃなくて,『朝鮮』って言ってほしいんですよね」。
民族Takeshi嫌韓の代償を払う日本3・1独立運動100周年をめぐる韓日政府の動き 長尾有起氏(日本基督教団から韓国基督教長老会へ派遣されたミッション・コーワーカー,いわゆる宣教師)は次のように述べています。
この原稿の依頼をいただいた際,Takeshi嫌韓の代償を払う日本「反日」と「嫌韓」 長尾有起氏(日本基督教団から韓国基督教長老会へ派遣されたミッション・ワーカー,いわゆる宣教師)が次のように述べています。
日本に一時帰国すると,韓国におけるTakeshi嫌韓の代償を払う日本韓日関係悪化を憂慮する石破茂衆議院議員 佐藤優氏は,石破茂衆議院議員について,次のように触れています。
<石破氏は記者団の取材に応じ,泥沼化する日韓関係の悪化に触れ,安倍政権の対応ぶりを念頭に,Takeshi嫌韓の代償を払う日本女性差別的な安部政権 菊地夏野氏(名古屋市立大学教員)は,安倍政権は女性差別的であると論じています。
まず,「慰安婦」問題がここまで紛糾しているのは,日本政府の政治的責任が大きTakeshi嫌韓の代償を払う日本歴史修正主義の戦略 倉橋耕平氏(立命館大学ほか非常勤講師)があいちトリエンナーレをめぐる騒動は「歴史修正主義の大勝利」であると論じました。
歴史修正主義が「歴史を見直すくらいTakeshi天皇制は日本国民分断の象徴だと思える。象徴としての天皇(2) インターネットを見ると,安部は天皇を政治利用していると言う人がいるが,それは本質を見誤っている,象徴というものは政治利用されるものなのである,と指摘した人がいTakeshi鳥取県の女性差別的婚活パンフヒジャブ着用に抗議して逮捕されたイラン女性を救おう! 2019年3月8日の国際女性デーに,イランの女優であるヤサマン・アリヤニさんは地下鉄の車両にヒジャブを脱いで乗り込みました。そして,「いつの日か,すべての女性が好きTakeshi嫌韓の代償を払う日本代償を払うのは当然の帰結日本帝国主義支配の犠牲者である徴用工。
安倍政権は日韓基本条約で解決済みという立場をとっています。
(日韓基本条約は1965年6月、韓国内の激しい反対運動を無視し閉口節約を勧める日本経済新聞は経済にとって役に立たない有害な存在になった。改めて消費税増税に反対。消費税増税後1カ月を経過10月1日に悪名高い消費税が8%から10%に引上げられ1カ月が経過しました。
庶民の生活はより一層苦しくなりましたが、どうしたことかこれに反発する声がほとんど起閉口日本政府・行政お抱えの広報機関となっている、笑えない吉本興業吉本よ!おまえもか吉本興業が安倍政権、行政お抱えの広報機関に転落。
笑えない吉本になってしまいました。
吉本に限らず芸能関係、メディア、司法等々ありとあらゆるものが安倍政権に忖度し閉口世界中に知られる麻生太郎氏の放言癖宰相の器 古代国家においては料理人が非常に重要な意味をもち,大変な地位があったそうです。
中国では,約2万年前の殷の時代に国家の中枢として料理人が選ばれたという記述がTakeshi死刑FAQ (適宜更新)死刑囚に恩赦は適用されないのか。2019年10月26日,アムネスティ・インターナショナル日本 活動・事業計画会議に出席してきました。
アムネスティの最高意思決定機関であるグローバル会議の会合
(GAMTakeshi