
記号と音波への恭順を強制する国家の行為に同意しませんという「
国旗国歌強制問題と嫌煙権問題を比べる。」の記事は、君が代裁判の東京高裁判決についてのものでしたが、それに関連して、いくつかの重要なブログ記事を記録と記憶のためにお持ち帰りする手抜きエントリーです。(^^;
まず、軽やかな筆致の、オリジナリティあふれる、それでいてよく考え抜かれた、高校の先生の記事二つ。長いですが、必読です。
●ssh-スーパー小論文ハイスクール
■ssh423 社説の読み方〜君が代訴訟東京高裁編 [社説の読み方]
http://sshshouron.blog.so-net.ne.jp/2011-01-31
2011-01-31 23:59
中央メディアはどれもこれもxxxxxでつまらんとニヒリズムに走り始めていたsshですが、国旗国歌の学校現場での扱いという問題になると、一気に各社のトーンがばらけてきて、我が「社説の読み方」のネタにもなるってもんです。やっぱこうでなくっちゃ。しっかし、久々だなあ、こうやって読み比べが成立するのは。
では参りましょう。まずは読売クン。
◆◆国旗・国家訴訟 起立・斉唱認めた妥当な判決
入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう、教職員に求めた東京都教育委員会の通達は、合理性があり、合憲である――。東京高裁はそう判断し、「通達は違憲」とした1審・東京地裁判決を取り消した。
日の丸・君が代は国旗・国歌として、多くの国民に定着している。自国はもとより、他国の国旗や国歌に敬意を表すのは、国際社会で当然のマナーである。高裁判決は妥当な司法判断と言えよう。
この訴訟で、原告の都立高校の教師らは「懲戒処分までして、日の丸・君が代を強制するのは、憲法で保障された思想・良心の自由を侵害する」と主張した。2006年の1審判決は「教職員に起立や斉唱の義務はなく、拒否しても処分されるべきでない」と、原告の訴えを認めていた。これに対し高裁判決は、「国旗に対して起立することは、特定の思想を外部に表明する行為ではないから、それを命じても、思想・良心の自由を侵害することにはならない」と指摘した。理由の一つに、国旗掲揚や国歌斉唱が、学校の入学式や卒業式だけでなく、スポーツ観戦でも一般に行われている事実を挙げた。納得する人は多いのではないか。
学習指導要領は、教師に対し、国旗の掲揚と国歌の斉唱を指導するよう定めている。しかし、それが学校で十分に守られていなかったために出されたのが、都教委の通達だった。教師が個人的に様々な歴史観や世界観を持つのは構わない。だが、指導要領に反してもいいということにはなるまい。
国旗・国歌を巡っては、君が代のピアノ伴奏を拒否した教師が懲戒処分の取り消しを求めた訴訟で、最高裁が07年に「伴奏を命じる校長の職務命令は、特定の思想を強制するものではない」と、合憲の判断を示している。今回の高裁判決も同じ流れにあると言えるだろう。最高裁判決以降、同種の訴訟では、教師側の敗訴が続いている。
かつて、一部の教職員組合がイデオロギー的立場に基づいて、「反国旗・国歌」運動を繰り広げ、教育現場は混乱した。だが、国旗・国歌法が制定され、今やすべての公立学校で、国旗が掲揚され、国歌が斉唱されている。起立や斉唱を拒否する教師の数も年々、減少傾向にある。子どもの手本となるべき教師が、入学・卒業式を厳粛な雰囲気で行うのは当たり前のことだ。◆◆
読売クンのこれまでのスタンスからすれば、極めて「妥当」で「当たり前」の文面ですね。これといって新味はありません。ったって、しょーがないですよね。だって「当たり前」だと思ってるんですから。
まーしかしそれにしてもというかだからというか、小論文的には最低のテキストですね。とにかく論拠がつまらない。
読売クンの論拠は「当然のマナー」「一般に行われている」「納得する人は多い」「指導要領に反していいというものではない」「年々減少傾向にある」「当たり前のことだ」と、つまりは多数決というか、おカミやご時勢に逆らうのはおかしいゼということしかないんですよ。
まあ、書いている方も面白くないんでしょうね。何せ「当然のことだ」と思っているんですから。当然のことを当然だと主張することくらいつまらないこともないでしょう。
当然だと思われていることを「ホントかな?」と疑うのがものを考える力を鍛えるスタートですから、そういう点ではまったく参考にならないテキストです。
細かく見ていけばツッコミ所はいっぱいありますけど(自国だけでなく他国の国旗国歌に敬意を表するのは本当に国際社会のマナーであるのか?アナタは北朝鮮の国旗国歌に敬意を表すのか?とかね)、まあそれはやめときましょう。とにかく「当たり前」が根拠という文章は学習の材料にならんです。
次は朝日クン。
◆◆君が代判決—少数者守る司法どこへ
数々の演劇賞を受賞した永井愛さん作・演出の喜劇「歌わせたい男たち」(2005年初演)は、卒業式の日を迎えた都立高校が舞台だ。教育委員会の指示通りに式を進めようと必死の校長。君が代斉唱の時、起立しないと決めている教師。そんな葛藤があることを知らぬまま、ピアノ伴奏を命じられた音楽講師……。根はいい人ばかりなのに、みな消耗し、傷つき、追いつめられていく。
芝居の素材になった都立高校で働く教職員ら約400人が、君が代の際に起立斉唱したり伴奏したりする義務がないことの確認や慰謝料を求めた裁判で、東京高裁は請求をすべて退ける判決を言い渡した。「起立や伴奏を強制する都の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」とした一審判決は取り消された。極めて残念な判断だ。ピアノ伴奏を命じることの当否が争われた別の訴訟で、最高裁は07年に合憲判決を言い渡している。高裁はこの判例をなぞり、斉唱や伴奏を命じたからといって個々の教職員の歴史観や世界観まで否定することにはならない、だから憲法に違反しないと結論づけた。
判決理由からは、国民一人ひとりが大切にする価値や譲れぬ一線をいかに守り、なるべく許容していくかという問題意識を見いだすことはできない。「誰もがやっているのだから」「公務員なのだから」と理屈を並べ、忍従をただ説いているように読める。それでいいのだろうか。
私たちは、式典で国旗を掲げ、国歌を歌うことに反対するものではない。ただ、処分を科してまでそれを強いるのは行き過ぎだと主張してきた。最後は数の力で決まる立法や行政と異なり、少数者の人権を保護することにこそ民主社会における司法の最も重要な役割がある。最高裁、高裁とも、その使命を放棄し、存在意義を自らおとしめていると言うほかない。近年、この問題で都の処分を受ける教職員は減っている。違反すると、罰は戒告、減給、停職と回を追って重くなるうえ、定年後の再雇用が一切認められなくなるからだ。そんな脅しと損得勘定の上に粛々と行われる式典とは何なのか。いま一度、立ち止まって考える必要があるように思う。
国旗・国歌法が制定された99年、当時の有馬朗人文相は国会で「教員の職務上の責務について変更を加えるものではない」と言明し、小渕恵三首相も「国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならない」と述べた。
ところが現在、教職員ばかりか、生徒や保護者、来賓の態度をチェックする動きが各地で報告されている。今回の高裁判決が、こうした息苦しさを助長することのないよう、社会全体で目を凝らしていきたい。◆◆
ま、読売クンに比べると、朝日クンの方がこの問題には執念深いようです。それは「ホントに当たり前なの?」というスタンスゆえでしょう。
人間、問いを持つとものを考えます。この社説でも朝日クンはわりといろんなことを調べて引用しています。小論文的は、こちらの方が読売クンの「当たり前じゃん」社説よりは具材になるテキストです。
とは言え、この社説の思い切りの悪さにはイライラしますね。朝日クンは「ホントに当たり前なの?」という疑念以上のことを、最後まで書いていないのですよ。この辺は最近の朝日クンのキャラそのもの。優柔不断。
さてさて、日経クンと毎日クンが社説展開しておりませんので、残るはお待ちかねの産経クンのみ。
◆◆国旗国歌訴訟 教師は混乱を繰り返すな
入学、卒業式で教職員が国旗に向かい起立して国歌斉唱することを義務づけた東京都教育委員会の通達について、東京高裁は控訴審判決で「思想・良心の自由を定めた憲法に違反しない」と、合憲の判断を下した。1審判決は「起立、斉唱の義務はない」などとした教師らの訴えを認めていた。これを取り消し、「慣習法として確立していた」と国旗、国歌を重んじた高裁判決は極めて妥当である。
受験シーズンを経て春の門出の季節を迎えるが、国旗、国歌を尊重するのは当然である。「強制」などと反発する教師の政治的な動きこそおかしい。学習指導要領では、入学、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱を指導することを明記している。東京都教委は平成15年、校長を通じ、教職員に国歌斉唱時に国旗に向かい起立し斉唱することなどを求める職務命令を出した。従わない場合、懲戒処分などが行われている。通達の背景は、国旗、国歌の指導に反対し、学校運営や式を混乱させる教師がいるからだ。過去には広島県で校長が自殺する痛ましい事件が起きた。平成11年の国旗国歌法制定以降も、反対する教師が相変わらずいる。
今回の訴訟で、18年9月の1審東京地裁判決は「懲戒処分をしてまで起立させることは行きすぎで違憲」などとした。こうした教育現場の実態を考慮しておらず、問題ある判決だった。国旗、国歌をめぐり処分を受けた教師らが訴訟を起こすケースは他にも相次いでいる。しかし、19年、最高裁は国歌斉唱のピアノ伴奏を拒否した教師の訴訟で「職務命令は憲法違反ではない」との判断を示している。今回も、この最高裁判例に沿ったものだ。
国会の代表質問で、菅直人首相は「国旗国歌法と教育基本法を順守するのは当然のことで、私も順守していきたい」と答弁した。日の丸、君が代を国旗、国歌として尊重することは国民に定着している。こうした訴訟がいたずらに繰り返されるのでは、教育現場を混乱させることにならないか。保護者らも出席して生徒を祝う節目の行事で、一部教師だけ不起立の光景は異様だ。国際社会でも自国や他国の国旗、国歌に敬意を払わない態度は認められない。教育委員会は教師の規律違反に今後も厳正に対処してもらいたい。◆◆
いや〜、さすが我らが産経クン。相変わらずですねえ。とにかくツッコミ所満載。この際だから列挙すると、
>受験シーズンを経て春の門出の季節を迎えるが、国旗、国歌を尊重するのは当然である。———受験シーズンとも春の門出とも、国旗国家の尊重は何の関係もないでしょ。
>「強制」などと反発する教師の政治的な動きこそおかしい。———Why? それを問わなきゃ。
>過去には広島県で校長が自殺する痛ましい事件が起きた。———そうでしたね。でも、あれって、教職員だけのせいなんでしょうかね?「現場と行政の板挟み」というのが当時の報道の一般的な論調でしたが。
>こうした教育現場の実態を考慮しておらず、問題ある判決だった。———「こうした実態」を配慮すると「合憲」になるんでしょうか?なぜ?
>こうした訴訟がいたずらに繰り返されるのでは、教育現場を混乱させることにならないか。———訴訟で教育現場は混乱しますかねえ?処分は現場を混乱させると思いますが。
>保護者らも出席して生徒を祝う節目の行事で、一部教師だけ不起立の光景は異様だ。———じゃあみんなで不起立すればいいんだ。
>国際社会でも自国や他国の国旗、国歌に敬意を払わない態度は認められない。———これを言っちゃあおしまいなんだけどねえ、産経クンは常々「靖国は日本の文化だ」とか、国際社会の常識に従う必要はないということを主張してるでないですか。何でこういう時だけ国際社会を論拠にしちゃうの?それに国際社会では学校での「厳粛な式典」は全然常識じゃないのですよ。入学式なんて、ない国が多いんだから。それに世界広しと言えども、2次大戦の敗戦国で敗戦以前の国旗国歌を継続使用してるのは日本だけでしょ?意地悪い言い方をすれば、これ国際社会の超非常識というか、我が国固有の独自な事情ですよ。だったら固有の独自な対応をしても構わないです(しなくてもいいけど)。
ホントにまあ、これだけツッコミ所満載だと、小論文の課題文に好適です。「これだけ穴があるんだから、キミにも反論できるはずだよ」という意味で。
え?私のスタンスですか?
私はですね、こんな時ばっかり教育問題にしゃしゃり出て来る部外者がメチャクチャ腹立たしいです。
式典なんて、教育活動のほんの一部です。これが学校の「当たり前」。
普段ロクに学校活動を見てもいないクセに、例えば給食の時間や掃除の時間に現場の先生がどんなことに気を遣ってどういう工夫をしているかとか、運動会が滞りなく運営されるためにどれだけの準備練習をしているかとか、そういうことにまったく無関心なクセに、やれしつけがどうだの学力がどうだの競争主義を導入しろだのと、もーいい加減にして欲しいです。
教育活動の一部として式典はあるんです。マスコミやブロガーの餌になるために式典をやってるんじゃありません。
かつて勤めた高校で、諸事情あって卒業式までに卒業認定が間に合わなかったという生徒がいました。
我が国の教育法規に、入学式や卒業式を必ず挙行しなければならないという規定はどこにもありません。学習指導要領はあくまで「式典においては」とあるだけです。式典の挙行そのものには法的拘束力はありません。
だから、たった一人遅れて卒業になった生徒は、ただ卒業させても法的には何の問題もありません。
しかし、私たちは卒業式を行いました。会議室に校長と教頭と学年担当職員が集まって、実にささやかな卒業式を。
現場ってのは、常にのるかそるかです。現場の行動原理は今も昔も「臨機応変」です。
「当たり前」の一言で切り捨てられるような気楽な世界じゃないんですよ。記者クラブ通いの(高給取りの)サラリーマン記者さんにはわからんでしょーけどね。
こういう「卒業式」でも、国旗を掲揚して国歌を斉唱しないと処分されるんでしょうかね、東京都だと。
■ssh424 ホントに「当たり前」なのかも〜ssh423の余白 [自己無責任論]
http://sshshouron.blog.so-net.ne.jp/2011-02-05
2011-02-06 00:50
ssh423 社説の読み方〜君が代訴訟東京高裁編 はおかげさまでたくさんの方にアクセスいただいたようです。やっぱ「君が代」と見出しに入ると、それだけでアクセスは増えるんでしょう。ただ、使命感(私が正義を教えてやる!てな)を持ってやって来た方々には大変申し訳ないのですが、拍子抜けだったんじゃないでしょうか。ssh423は社説のイジリ倒しですから。
とは言え、イジリ倒しであっても、読んでいるうちに何か気づくということはあります。
私はかねがね、こういう物言いがすごく気になっていたのですよ。
◆◆学習指導要領は、教師に対し、国旗の掲揚と国歌の斉唱を指導するよう定めている。しかし、それが学校で十分に守られていなかったために出されたのが、都教委の通達だった。教師が個人的に様々な歴史観や世界観を持つのは構わない。だが、指導要領に反してもいいということにはなるまい。(読売クンの社説より)◆◆
個人が様々な思想信条を持つのは構わない。しかし、取り決めに反してもいいということにはならない。
私はこういうものは大キライでどうにも納得できない、と思うこと自体は構わない。しかし、仕事上、立場に対しては従順でなければならない。
これがねえ、私にはどーにも理解できなかったんですよ。
でも、ssh423を書いていたら、ピンときたんです。
この記事を書いた人は、本当に、naturalに、「そんなの当たり前じゃん、全然難しいことじゃないじゃん、どーせ仕事じゃん、自分の気持ちなんかカンケーないじゃん。」と思っているんじゃないか、と。
え〜とネタ元を忘れちゃって恐縮なんですが、どっかでこんなような文章を読んだことがあります。
どこぞの出版社で中高年男性向け雑誌の記者をやっている若い女性に取材を受けた。若い女性記者がオヤジ向けの記事を書くということに違和感を覚えたので、こういう仕事は大変じゃないですか?と尋ねたところ、方針に従って書くだけなので別に全然大変じゃない、と返答されて、返す言葉がなかったと。
「おしごと」なんですね。記事は。
勤務先に「こうしなさい」と言われたから、こうする。それが仕事。
いや、大したものです、この忠誠心というか、割り切りというか。
ssh423へのコメントで、solea02さんが記していたことですが、中央紙にも真面目に取材して記事を作成しようという記者はいたのだけれど、上にボツにされてしまったと。
メディア人としては、そういう記事こそ価値があるのです。
しかし、カイシャインとしては、そういう仕事は有害無益。評価されない仕事なら、最初からやらないのがベスト。
宮仕えというのは、そういう世界です。理念よりも、正義よりも、使命感よりも、何よりも優先するものがある。
いや、もちろんこれは悪い意味での共感です。
自動車メーカーが、クルマの安全性やユーザーのことよりも、自分の立場を優先するようになったらアウトです。
料理人が、食べる人のことよりも、親方や社長やチェーンの顔色を優先するようになったら、早晩その店は客がこなくなります。
政治が市民よりも他の何か(支持母体とかアメリカとかあれこれ)を第一に考えるようになったら、その政治は末期です(もうなってるかも)。
新聞記者が、青臭い正義や使命感よりも、カイシャインとしての責務を優先するようになったら、もはや記者ではありません。ただのカイシャインです。
学校の先生が、生徒のことよりも、自分の保身や立場を優先するようになったら、もう無価値です。
私が「ピンときた」のは、
読売クンの社説を書いた人、
それに心から、毛ほどの疑いもなく共感できた人、
個人は個人、仕事は仕事と、スッキリ爽やかに割り切れる人というのは、
もしかしたら、本当に、心底、仕事と思想信条は分けて考えるのが当たり前と思っているのじゃないかと。
もうちょっと突っ込むと、
何かのはずみで読売の記者が朝日に動いたら、
動いたその日に180度異なる記事を、何のためらいもなく書けるのじゃないかと。
だって、仕事ですから。もちろん逆もアリ。
敢えてイヤミなことをやると、冒頭で引用した読売クンのアレでこんなパロディもできます。
「我が社の規約は、社員に対し、◯◯をするように定めている。社員が個人的に様々な歴史観や世界観を持つのは構わない。だが、社の規約に反してもいいということにはなるまい。」
で、こういうのに対して「当たり前じゃん」と思えるような人ばっかがメディア人になっているんじゃないかしら?というのが、私の危惧なんです。
勤め人なら、勤務先から要求されることには従うのが当たり前。
個人の思想信条なんて、何それ?仕事には無関係じゃん。
異動して、そこで正反対のイデオロギーの意見を書けと言われたら、もちろん書く。仕事だから。
それが当たり前。だって仕事だから。良心が痛む?何それ?わかんな〜い。
・・・というようなタイプの人が、「おしごと」として、いろんな記事を書いているんじゃないか?
だとすれば、ああいう意見が何の屈託もなく出てくるのは理解できます。
だって、「良心が傷む」ということ自体がよくわからないのだから。
仕事は仕事でしかないのだから。
これは国旗国歌をどーこーせいと言ってくる側も同様の可能性があります。
今はこういうご時世だから、こうしなさい。アナタの気持ちはあるのでしょうけど、こうしなさい。
え?イヤだ?なぜですか?仕事じゃないですか?ナゼできないのですか?おかしいでしょ?たかが旗と歌ですよ?言われた通りにやればいいじゃないですか?どうしてもイヤだ?なぜですか?仕事じゃないですか?わからないな〜。ただ旗飾って歌歌うだけじゃん。何でその程度のことができないの?内心?カンケーないじゃん、仕事でしょ?
「良心が痛む」という言葉の指し示すことが、そもそも全然感受できないのかもしれません、指示する側は。
モノを考えるスタート地点は「?」です。
なぜ?どうして?誰が?それは本当に正しいの?それでいいの?じゃあこういうのはどうなの?
「?」を出すこと=問いを立てること。これが「考える」ことです。
ssh423で紹介した読売クンや産経クンの社説のような文面にすごくアレルギーがあるのは、あれは考えることをやめなさいという命令文だからです。
本来、ものを考えることが仕事であるはずの記者が、なぜあんな思考停止奨励文を書くのか?
それはもしかしたら、「オレたちだって上の方針であれこれ書いているだけだよ。報道だって教育だって、仕事なんかそんなもんじゃん。なのに、なぜキミたち教職員は個人の思想信条だの何だの、何を裁判まで起こしてそんなつまらんものにこだわるの?」という、ナチュラルな疑念だったのかもしれません。
(転載ここまで)
まじめに展開すると、浦部法穂先生の記事になります。これは重厚な本質論を濃縮した記事でしょう。
●法学館憲法研究所
浦部法穂の憲法時評
国旗・国歌強制のほんとうの問題
浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
http://www.jicl.jp/urabe/backnumber/20110203.html
2011年2月3日
東京都教育委員会による入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の強制に対し、このような強制は教育の本質に反するとともに憲法の保障する思想・良心の自由を侵害するものだとして、こうした強制をやめさせようとする訴訟が、いくつも提起されている。そのうちの一つ、都立学校の教職員が、卒業式等において「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する義務」がないことの確認などを求めた訴訟の控訴審判決(東京高裁)が、1月28日に出された。この訴訟の第1審判決(東京地裁2006年9月21日)は、この問題に関する訴訟のなかでは唯一、教職員に対し「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」ことを強制するのは憲法19条の思想・良心の自由を侵害するものだ、と明確に述べた判決であった。そのうえで、第1審判決は、教職員に起立・斉唱義務やピアノ伴奏義務のないことなどを、はっきり認めたのであった。
しかし、控訴審判決はこれを全面的に否定し(そもそも訴えじたいが不適法だという)、国旗掲揚や国歌斉唱は一般に広く行われていることであって思想・良心の自由とは関係がない(「憲法19条の問題となることはない」と判決は言っている!)としたのである。判決文は長ったらしいが、中身は要するに、都教委側の言い分をそのままなぞっただけの、お粗末きわまりないものである(ほとんど「コピペ」の世界?)。行政の言い分や政治権力に、あるいは最高裁の言ったことに、盲従するしか能のない裁判官が、いかにはびこっていることか。あらためてそれを見せつけられた感がする。国旗・国歌強制のなにが問題なのかを、少しは自分の頭で考えられないのだろうか。司法権を担っている裁判官がそのレベルでは、恐ろしい。
では、その、国旗・国歌強制の本質的な問題とは何なのであろうか。強制が許されないというのは、国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」だから、なのであろうか。たしかに、「日の丸」・「君が代」は、かつての軍国主義日本のシンボルとして、文字どおり侵略の旗印としての役割を果たしてきた。だから、そういう旗や歌を、掲げたくない・歌いたくない、見たくも聞きたくもない、と思う人がいても不思議ではないし、現にいる。国旗・国歌強制は、そういう人たちのそういう思いを抹殺するものであるから許されるものではない、といえる。そういう意味で、「日の丸」・「君が代」だから、という側面は、たしかにある。では、もしも国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」でなかったならば、強制しても問題ないということになるのであろうか。そうではないはずである。国旗・国歌強制が許されないのは、「日の丸」・「君が代」だからというよりも、まさに国旗・国歌だから、なのである。国旗・国歌は、いかなる場面においても、決して権力が国民に対して強制してはならないものなのである。少なくとも民主主義国家においては。本質的な問題は、そこにある。
国旗・国歌は、国家の権力に服属する人々にその国の一員であるという意識を植え込み、人々を「国民」として国家のもとに統合するという機能をもつ。そのために、近代以降の「国民国家」(nation state)は、国旗・国歌というものを制定したのである。私たちが、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うとき、程度の差はあっても、「自分は日本国民(日本人)だ」ということを意識しているであろう。日本という国の一員であるという意識、しかもそのことを肯定的にとらえる意識である。言いかえれば、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎(の一つ)とする意識である。そういう意識をもつことが悪いというわけではない。しかし、そういう意識を持つべきだと、他から、ましてや国家公権力から、強制・干渉されるいわれはない。自己のアイデンティティの基礎をどこに求めるかは、まさに個人個人が自分で自律的に決めるべきことだからである。それは、憲法13条のいう「個人の尊重」の一番根源である。国旗・国歌の強制は、国家の一員であることを肯定的にとらえる意識を持て、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とせよ、と強制されるに等しく、「個人の尊重」のもっとも根源的な部分への侵害となるのである。
しかし、国家の権力にとっては、国家の一員であることを肯定的にとらえ、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とする人々が増えてくれることは、好ましいこととなる。できれば国民すべてにそういう意識を持ってもらいたいと思うであろう。そういう意識を持った国民が多ければ多いほど、権力の求心力は高まり、国家の権力体制への深刻な批判や反対は少なくなるからである。だからこそ、権力は、小さい子どものうちからそういう意識を植え付けようと、小・中・高等学校での国旗・国歌強制に躍起になっているのである。しかし、そうして権力や支配体制への疑問をいっさい持たず批判能力をまったく失った国民ばかりになった国は、どんな国になるのであろう。そういう国を、私たちは、「全体主義国家」と呼んで、民主主義の「敵」とみなしてきたはずである。東京都教育委員会などが異常な執念を燃やす国旗・国歌強制の行き着く先は、そういう全体主義への道にほかならない。そして、そのことに気付こうともしないお粗末な裁判所が、それをせっせと後押ししているのである。
(転載ここまで)
戦争中に日本軍による被害を受けた沖縄の新聞の社説です。
●琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
国旗国歌訴訟 「強制」は思想の自由脅かす
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-172961-storytopic-11.html
2011年1月30日
東京都立高校の教職員らが都と都教育委員会に対し、入学式・卒業式における日の丸への起立、君が代斉唱の義務がないことの確認や損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は一審判決を取り消し、請求を退けた。
東京地裁が下した2006年9月の一審判決は、国旗国歌の強制は違憲として請求を認め、斉唱しないことなどを理由とした処分を禁じた。ところが控訴審は、日の丸への起立、君が代斉唱の強制を合憲とし、教職員側が全面敗訴した。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と憲法19条は規定している。国家権力が、個人の思想信条に反して一定の行動を国民に強いることは本来許されるべきではない。高裁判決は、少数者の思想・良心の自由を侵す行為を是認するに等しく、疑念を禁じ得ない。
君が代のピアノ伴奏を拒否した音楽教諭をめぐる訴訟で「伴奏の職務命令は思想・良心の自由を侵害しない」とした07年の最高裁判決が背景にある。以後類似の裁判で教職員側の敗訴が相次いでいる。
国旗国歌の強制は、大戦以前の皇国思想、軍国主義思想を想起させるとして不快に思う人たちの心を踏みにじるものだ。教職員側は「教育に対する不当な介入で教育基本法にも反する」と訴え「教員だけの問題ではない。子どもを狙った思想統制」と指摘していた。
06年の東京地裁判決は「信仰に準じた世界観や主義、主張から、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する人がいるのも現実。懲戒処分をしてまで起立させ斉唱させるのは少数者の思想・良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置」と結論付けた。
これに対し今回の判決は「一律に起立、斉唱するよう求めた都教育長通達には合理性があり、思想良心の自由を定めた憲法に反せず、教育基本法が禁じる『不当な支配』にも当たらない」と、一審判決を真っ向から否定している。
国旗国歌法が1999年に成立した際、当時の野中広務官房長官は「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と国会答弁していた。
権力側に命令され、起立を強いられたり、歌いたくもない歌を斉唱させられたりするのは一部の人にとっては苦役にも等しいだろう。敬意は自然のうちに育むものだ。強制によっては生まれない。
(転載ここまで)
エジプトの革命から見た国旗論。
●リベラル21
■日の丸とエジプト国旗
―「朝まで生テレビ」と「タハリール広場」の生中継―
半澤健市 (元金融機関勤務)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1482.html
2011.02.18
《東京高裁判決を論じた朝ナマ》
2011年2月5日(土)の「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)のタイトルは「激論!日本は本当にダメな国家なのか?!」であった。参加者は司会の田原総一朗ら下記13名の「論客」である。
・大塚耕平(厚生労働副大臣、民主党・参議院議員)
・辻元清美(無所属・衆議院議員)
・猪瀬直樹(東京都副知事)
・堀江貴文(元ライブドア社長)
・夏野 剛(慶大教授)
・津田大介(メディアジャーナリスト)
・齋藤 健(自民党・衆議院議員)
・松田公太(みんなの党・参議院議員)
・金 美齢(評論家)
・東 浩紀(批評家)
・飯田泰之(駒澤大准教授)
・竹田恒泰(慶大講師)
3時間番組の中頃の30分を、田原は「猪さんが来ているから」と言って、いわゆる「国旗・国歌訴訟」の東京高裁判決問題にあてた。君が代の起立斉唱などを強制するのは不当として都教委を提訴した教師たちが東京高裁で11年1月28日に敗訴した判決をどう思うかと問うたのである。結論を先に言えば、13人のうちその判決を「不当」と明言した参加者は一人もいなかった。なお東京地裁判決では教師側が勝訴している。
《軽視・回避・支持の言説》
録画をメモしたものから主要な発言を紹介する。
◆「なぜ問題になるのかわからない。天皇の戦争責任から出発するステレオタイプの歴史観が問題ではないか」(猪)
◆「どっちでもいい。こんなことにこだわる理由がわからない」(堀江)
◆「国旗国歌への表敬はルールだ。無視する場合は相応の覚悟が要る。私は中華民国は嫌いだが総統就任式に招かれたときは起立はしたが歌わなかった」(金)
◆「歌いたくない生徒は歌わなくてもよいが、教師が歌うことは教育基本法や指導要領から導かれる役割だ。自衛隊員が宗教上の理由から殺人を拒否したらどうなるか。いやなら教師にならなければよい」(竹田)
◆「ズルズルやってきたことを今頃議論しても仕方がない。関係のないことだ」(東)
◆「倫理的に考えるのがおかしい。政治家の良悪、パーソナリティーを論ずるのではなく政策論を論ずるべきだ」(飯田)
◆「帰国子女の私は海外で日本人であることを痛感した。米国国歌を歌わされた違和感が起業の出発点にもなっている」(松田)
◆「国旗・国歌を新たに創るのは大変だ。戦争の評価とは切り離して考えられないものか」(大塚)
全文を起こせば数十倍になろうから引用が断片的で恣意的である可能性はある。関心ある読者はぜひ適宜な方法で元番組に当たられたい。
《辻元清美と田原総一朗》
参加者の発言を分類すれば、問題意識が低い、核心を避けている、判決を強く支持している、のいずれかである。とはいえ辻元と田原から懐疑論が出たことを書き留めておくのが公平というものであろう。
辻元清美は、「国歌・国旗法」案を審議した99年の政府答弁を想起して、小渕恵三首相は起立・斉唱を「義務づけせず」と言い、有馬朗人文相は「内心の自由を侵しての強制は許されず」と答えたので納得したのだという。論点は「国家と個人」、「個人内面の自由」という二つの問題だと彼女は認識している。そして国会の賛否は二分されて現在に至るといった。
田原総一朗は、満州事変から日中戦争までは日本の侵略と考えている。だから戦後に国歌と国旗は変わると思ったが実現しなかった。それで今でも国歌は歌いたくないといった。しかし自分が現実に直面したら「起立はするが歌わない」といった。
ここまでの議論を聞いて私自身は「事態はここまで来たか」という危機感をもつ。読者はどう感じられたであろうか。
《白地に赤い丸を描いただけだが》
国旗に絞って若干の考えを述べる。
モノとしてみれば、日本国旗は長方形の白地に赤い円を描いた一枚の布地である。しかし歴史の文脈でみれば立場により日の丸の姿は異なる。「大東亜戦争」期の殆どの日本人に、それは「帝国によるアジア解放」のシンボルであった。多くのアジア人にはそれは「帝国によるアジア侵略」のシンボルであった。いずれも猪瀬のいう「ステレオタイプの歴史観」ではない。それは当時の「現実」であり、今日も国際的に流通する「歴史的記憶」である。
思想の自由は抽象的な理念ではない。日常のなかに実現されるべきものである。起立と歌唱を拒否する教師たちから自由な考え方と生活を奪うことを憲法は許していないと思う。神は細部に宿るという。だが悪魔もまた細部に宿るのである。戦う舞台は細部にしかない。「どっちでもいい」ことでもなく「こだわる」べきことなのである。
この文章は、テレビとPCでエジプト革命を見ながら書いている。私が気がついたのはデモの画面にエジプト国旗が増え続けたことであった。あの国旗はエジプト人民が求める自由・正義・公正・平等―そしておそらくは反米―のシンボルであった。
《抑圧と解放のシンボルとしての国旗》
私のみるところ事態は次の二つのことである。
一つ。「朝まで生テレビ」の国旗・国歌論議は、国歌というシンボルによる市民の抑圧を巡るものである。偏狭なナショナリズムが横行するいま、「国旗・国歌」は15年戦争の歴史という文脈を離れている。310万人の死者を残して負け取った民主主義を離れている。それは歴史のない仮想空間を浮遊している。戦後民主主義は死にかけているのである。
二つ。エジプト革命を報ずるテレビ画面にひるがえるエジプト国旗は、30年の独裁政治を倒したエジプト人民の解放を表象している。我々は、津波のように、怒濤のように押し寄せるデモ参加者を確かに見た。そこに、タハリール広場に、うち振られた、増え続けたエジプト国旗は、文明の発祥地に民主主義が生き返りつつあることを示しているのである。
「民主主義の」という形容詞を付けたときに、「先進国」と「途上国」という名札は日本とエジプトにどう分配されるのであろうか。
■2011.02.26 日の丸とエジプト国旗(2)
―読者のコメントに触発されて―
半澤健市 (元金融機関勤務)
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1488.html
2011.02.26
有り難いことに「日の丸とエジプト国旗」(2月18日)に対して読者から多くのコメントをいただいた。それに触発されて再考し確認したことを次に掲げる。おおむね繰り返しになった。
《国旗への感情移入は自然だろうか》
国旗に対する人々の抱く感情は好意的であるという指摘が多い。そのこと自体も好意的に受け取られている。その通りであろう。その事実を私も認める。しかし「そうなんだよな」だけでよいか。留意すべきことが三点ほどあると思う。
一つは、自然な感情といってもそれは造られた感情であるということである。
国旗は近代国民国家という「想像の共同体」の一要素でありすぐれて人工的な作物である。「日の丸」のようにデザインが不変な国旗は例外ではないかと思う。たとえばドイツ国旗と比較をしてみればよい。ウィキペディアを見ると十数種のドイツ国旗が現れる。ナチス時代の「ハーケンクロイツ(鈎十字)」は完全に廃止されている。「大東亜共栄圏」時代のアジアの人々―日本人を除く―から見れば、それは日本版「ハーケンクロイツ」に見えたであろうと私はいったのである。
彼らにとって愉快ではなかっただろうといったのである。それは日本人にとっても愉快なことではない。しかし愉快でない原因を考えないで問題を国旗一般への敬意に飛躍するのは歴史認識を欠いている。歴史認識を欠いているから、未だに「歴史認識」が外交上の大きな問題になるのである。
二つは、にも拘わらず、「造られた感情」であっても「人工的な作物」が人々の情念に訴える力は極めて強いことである。これはいくら強調してもし過ぎることはない。その上、そういう感情の強弱で愛国の度合いが試されるという仕掛けになっているのである。
《社会主義者にとっての日の丸》
たまたま清沢冽(きよさわ・きよし、1890~1945)の文章を読んでいたら次の一節に出会った。清沢は戦前に活躍したリベラルなジャーナリストである。このくだりに続けて清沢は共産主義者片山潜についても同じことがあったと書いている。
▼一体日本人と生まれて本当に国家のためを思わないものがあるかどうかという問題であります。石川三四郎という社会主義者があります。/木下尚江さんとか、安部磯雄さんと一緒に社会運動の初めの頃運動をした人でありまして、その後この人が一番左の方へ寄りまして、いろいろな圧迫があってヨーロッパへ逃げていった。/欧州に行って暫く田舎におったが、どうも日本人というものが懐かしくてたまらぬ。或る時に久しぶりで日本の大使館のある処へ行った。その上にへんぽんとして翻える日本の国旗を見た時に、自分はたただ泣けた。懐しい。西洋人の間におって日本人の顔も見なくて淋しい。故国に満腔の不平をいだいて外国へ漂浪したその人が、日本の国旗を見た時に涙が出て仕方がなかったというのです。(『混迷時代の生活態度』、1935年【註】)
《「であること」と「であるべきこと」》
三つは、しかし、そういう感情移入はすなわち「正しい」とも「価値がある」ともいえないということである。「であること」と「であるべきこと」とは違うのである。
感情移入が、個人の自由に任されている限りでは問題は生じない。
しかしその「限り」が破られたときに、自由の問題は個人の内面に達する。「思想の自由」、「信条の自由」の問題になるのである。
東京都による国歌斉唱の強要は、教員と東京都の国旗争奪戦は結着していることを示している。国歌は自明の前提であり、それを拒否することの是非が問われているのである。
日常においても政治においても、「形式」はしばしば「内容」を規定する。
私は子供時代にバスが宮城(皇居の旧称)の前を通る時、頭を下げさせられたことを覚えている。戦前・戦中には公式の席で「畏(おそ)れ多くも」という言葉が発せられると座の人々は「直立不動」の姿勢を取った。そのあとに「天皇陛下」という単語が続くからである。その実態を、若い人たちは、戦後の反戦映画でも見て知って欲しい。「日の丸を掲げたからといって生徒たちに何の影響も持たないのであるから、いくらでも踏み絵を踏んで見せればよい」などという話ではないのである。
《「問答無用」の精神構造とどこが違うのか》
1936年2月26日に起きた陸軍青年将校たちのクーデターは失敗したのであろうか。天皇親政による「昭和維新」は実現しなかったという意味では失敗といえるであろう。その四年前の5月15日には、海軍の青年将校たちが犬養毅首相を「問答無用」といって射殺した。226は515の続きである。
国歌斉唱の強要と「問答無用」は同じ精神構造に発すると私は思っている。
時代の風景は瞬時に変わることを忘れてはならない。
【註】『清沢冽評論集』(山本義彦編、岩波文庫、02年)の264~266頁
(転載ここまで)
戦争経験世代の志村建世さんの記事です。
●志村建世のブログ
日の丸・君が代裁判で考えたこと
http://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=3451412
2011.1.29
学校の式典で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱しなければ処分するとした東京都教育委員会の通達について、これを憲法違反とした一審の判決を、28日の東京高裁判決は逆転して合憲とした。公的な場で日の丸・君が代を強制する流れが、これで加速すると思われる。
戦時中の国民学校でもこんなことはなかった。始業式など学校の行事ごとに校長の「教育勅語」朗読はあったが、講堂の正面に日の丸を掲げてあった記憶はないし、全校生徒で君が代を歌うこともなかった。ただし「勅語奉答歌」を歌ったり、朝礼で「宮城遥拝」などはしていたから、今よりも統制は厳しかったとは思う。それでも日の丸・君が代についての記憶は少ない。疎開学園でも、国旗掲揚や君が代斉唱は、一度もなかったと思う。
戦時中は国全体が戦争目的でまとまっている建前だから、ことさらに「日本」を強調する必要もなかったのだろうか。隣組でも、いわゆる「旗日」に門前に日の丸を出す家が多かったが、出さない家をとやかく言うこともなかった。
戦後になって、連合軍により日の丸の掲揚は原則禁止され、祝祭日に限って総司令部の許可により掲揚できることになった。しかし一般的には関心を引く話題ではなく、私の家では父が律儀に門前に旗を出していたが、近所でもただ一軒だけで突出していた。
日本の独立回復とともに、もちろん国旗掲揚は自由になったわけだが、祭日でも近所の家々に日の丸が復活することはなかった。君が代の歌については、もちろん昔から家の中で歌うようなものではなく、NHKの放送が終る深夜に演奏が流れるだけだった。
ほとんど意識されなくなっていた日の丸と君が代が話題に上るようになったのは「国旗・国歌法」が施行された1999年以降だから、この10年ほどのことである。君が代についての私の意見は、すでに「君が代を何とかしたい」に書いておいた。国旗や国歌が団結のシンボルとして情熱的に受け入れられるのは、独立を勝ち取った新興国にこそふさわしい。千年単位で存続してきたわが国で、罰則をもって国民に強制する必要があるとは思えない。
君が代は当分「何ともなりそうもない」し、日の丸も国際会議などでは有用ではあるだろう。しかし日の丸と君が代に「国際的識別のツール」以上の意味を負わせようとするのは無理がある。国家に対する忠誠心を確かめる踏み絵として利用しようとするその国家は、どこへ向かって進みたいのだろうか。過剰な国家意識は、自然で自発的な国を愛する心を傷つける。
(追記・教職経験者の遊工房さんのブログによると、日の丸・君が代は1980年あたりから教育現場で問題になってきたとのことです。それで規制の根拠となる法律を作ったのが1999年という順序になるようです。「強制はしない」との国会審議は空文でした。)
(転載ここまで)
上の志村建世さんのブログのコメント欄で紹介されたブログで紹介されている、戦時中を生きた方の詩。
●七十代万歳!
二人の少年兵
http://hisakobaab.exblog.jp/12014943/
2011-01-29 16:09
私は日の丸が大好きなんですが・・・
日の丸に振り回されて戦争の犠牲になった人は、複雑な思いがあるのですね。
兄と弟、二人で少年兵になり、兄は帰らず、弟はシベリアに抑留された。
猪熊 得郎さんが11年前に書かれた詩です。
兄と弟
二人の少年兵
猪熊得郎
(「不戦」2000年2月121号)
一九四三年冬
二つ上の兄は
「国難ここにみる」と「元寇の歌」を歌って
「予科練」を志願した。
十五歳の弟も
必死で父を説得した。
「アッツもタラワも
そしてマキンも
みんな玉砕だ。
今行かなければ
大変なことになる。」
「特幹」を志願する。
「日の丸」の金縁の額と
白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が
父と子を見下ろしていた。
四日後、とうとう父は諦めた。
「行きなさい、
でも、生命(いのち)は大切にな」。
一九四四年夏
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた
兄と弟は
水戸陸軍航空通信学校の営門で
最後の別れをした。
陸軍特別幹部候補生
陸軍一等兵の弟は
十五歳十一ヶ月
海軍飛行予科練習生
海軍飛行兵長の兄は
十八歳五ヶ月
二人の父は
いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを
黙ってじっと見つめていた。
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた息子たちと
父はもう会うことが出来なかった。
兄は数日後
土浦海軍航空隊から
特攻隊員として
瀬戸内海大津島(おおづしま)の
人間魚雷「回天」基地に
旅だって行った。
一九四五年早春
兄は沖縄に向かった。
回天特攻隊を乗せた輸送艦は
待ちかまえた
アメリカ潜水艦の雷撃で沈没
回天もろとも、全員戦死した。
一九四五年夏
弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。
「日の丸と君が代」の下
死ぬことを教えた
高級将校たちは
いち早く日本へ飛び去った。
脱走、略奪、殺し合い、
混乱の中で戦友は
「天皇のため、祖国再建のため
歩いて日本に帰るのだ」
そう云って飛行場を離れた
彼らは未だ還っていない。
天皇の兵士たちは
シベリアへ送られ
飢えと寒さと重労働に
次々と倒れ
六万人が零下三〇度の異国に葬られ
祖国の土を踏むことがなかった。
「皇居遙拝
将校を父と思え
下士官を兄と思え
天皇のため苦しみに耐えよ」
今日も戦友が死んだ。
「みそ汁が飲みたい。お母さん。」
一九四七年冬
弟は祖国の土を踏んだ。
故郷は東京大空襲で跡形もなく
水戸で別れた父も兄ももういなかった。
そして云われた。
「シベリア帰りとは云うなよ」
生きるため国土復興のため
一生懸命働いた弟が
やがてお年寄りと呼ばれる頃
高齢者が多いから国が貧しい
福祉・医療費の切り下げ切り捨て。
「老人は 死んで下さい 国のため」
「日の丸・君が代」が
我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。
「日の丸・君が代」に育てられた君たちよ
「日の丸・君が代」のため今度こそ死んだらどうだ。
初心忘れるな。
それが愛国心。
冗談じゃあない
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」で鍛えられ
地獄の入り口を
はいまわった俺たち。
そう簡単に死んでたまるか。
俺たちは侵略戦争に
青春を捧げた生証人。
生きること、語ること、
それが、それこそが
「日の丸・君が代」と俺達の闘いだ。
(転載ここまで)
これは、不定期連載「
世界の反戦歌・反戦詩から」の記事の一つにもなりますね。
あと、リンクのみですけど、余力がある方はぜひどうぞ。
●社会科学者の時評相撲村の八百長事件(続)
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=34761822011.2.10
この「相撲村の八百長事件(続)」も重要な記事ですが、引用部の色使いやリンクが多いため、リンク先でぜひどうぞ。
●Afternoon Cafe国旗・国歌訴訟の東京高裁の判決は日本の人権の後進性を再認識させるものでした
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-564.html2011-01-30
あと、その他いくつかの新聞の社説を「追記を表示」に入れました。
なお、国旗国歌強制問題については、『
カテゴリ : 歴史、国家主義、「愛国心(国家意識)」 』の中の数十の記事で私の考えや資料をたくさん提示してあります。どうしてもコメントを書きたい方は必ずそちらも読んで理解したうえでどうぞ。
築地市場の豊洲移転に反対して食の安全を守りたい。
●Like a rolling bean (new) 出来事録
■2011-02-21
築地市場移転での廃業には財政的支援も、と推進派理事長候補。まさに非実在札束で頬を叩く官製地上げ
http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10808172324.html
■2011-02-23
イシハラ都知事不出馬?東京に埋め込まれた地雷とトロイの木馬との闘いが続きます
http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10810258278.html

↑『がけっぷち社長』さん作。また、税制についての当秘書課の記事は、「カテゴリ : 税制、税金、財政」から。
身近な一歩が社会を変えるきまぐれな日々の中で
そこに存在する良き人生と生活への切実な望みを
民主党にわからせるために、
低気温のエクスタシーの中の
アブナイ日本が
壊れる前に、
生まれてきて良かったと感じられる社会にしたいけど
とりあえずどうしたらいいか
kimeraれない人と、
イル・サンジェルマンの散歩道の
くろすろーどにある
アダージォな
午後のカフェの
窓辺でお茶に
クリーム入れて
みんななかよく鍋パーティーして、
世界の片隅で税制についてのニュースや
ルンペン放浪記や
ペガサス・ブログ版や
転成仁語や
イラク・ホープ・ダイアリーや
広島瀬戸内新聞や
虹の日記や
vanacoralの日記や
黙然日記や
フランス語の練習帳や
「ユニオン」と「労働ニュース」のアーカイブや
琉球新報や
沖縄タイムスや
辺野古浜通信や
高江の現状を読んで、
沖縄問題と北アイルランド問題を同じように考えてみようと思って、
消費税と社会保障と国家予算についてのマスコミに載らない海外記事を
1947年教育基本法の理念の今日行く審議会と
スーパー小論文ハイスクールと
アジア連帯講座と
内田樹の研究室で
超左翼おじさんと見て、
大脇道場と
言ノ葉工房と
内田樹の研究室と
知られざるアフガン・イラク・北朝鮮と日本と
カナダde日本語を
はげしく学び、はげしく遊んだところで、
労働組合ってなにするところだろうとか、どうしたら
湯浅誠さんや
戸倉多香子さんや
保坂展人さんのために
団結は力で
すくらむ組んで
多世代交流のブログ広場の
多文化・多民族・多国籍社会で「人として」転がるひよこ豆のように情報流通を促進できるかとか、
明日も晴れの
空と風と、月と、星のもとで
白砂青松の
雪裏の梅花や
ブーゲンビリアや
古い寺を多く見て日常で思った事、感じた事をつらつら好き勝手に書きながら国会議員定数削減・比例削減に反対するInternet Zoneのサイバー
政治団体秘書が
シジフォスにも負けたくないと「
どこへ行く、日本。」とつぶやくおしごと日誌。
国会議員やマスメディアに意見を届けるために下記を自由にご活用ください。引用、転載、転送、歓迎。
■各種国会議員名簿のポータルページ
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-86.html■官庁への意見送付先について
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-51.html■新聞、雑誌 読者の意見を伝える窓口(未整理)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-49.html■テレビ報道番組のご意見窓口(
「わんばらんす」から)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-50.html●News for the people in Japan マスメディア問い合わせ用リンク集
http://www.news-pj.net/link/media.html
******
記録のための転載です。
●信濃毎日新聞[信毎web]
国旗国歌判決 教室が萎縮しないか
http://www.shinmai.co.jp/news/20110131/KT110129ETI090009000022.htm
2011年1月31日(月)
東京都と都教育委員会が、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう強制したことは憲法違反には当たらない-。
都の教員らが、起立・斉唱の義務はないことの確認などを求めた訴訟で、東京高裁が下した判決である。
都教委は、起立・斉唱しなかった教員を懲戒処分している。昇給を遅らせたり、定年後の再雇用を拒んだりもしている。そうまでして従わせることが、憲法が保障する思想良心の侵害に当たらないのだとすれば、「侵害」とはどんな行為を指すのか。
原告は上告するという。最高裁には、国民に分かりやすい判断を示すよう求める。
「国旗は、日章旗とする」
「国歌は、君が代とする」
短い条文で成る国旗国歌法が成立したのは1999年だった。当時の小渕恵三首相は「内心に立ち入ってまで強制しようという趣旨ではない」と説明した。
けれど、文部科学省や各地の教育委員会は、起立・斉唱を徹底するよう通達を出し、義務化を推し進めた。都教委が通達を出した03年度、懲戒処分した教員数は179人に上る。全国の処分者の9割超を占めた。
今回の訴訟は、04年に始まった。一審の東京地裁は「懲戒処分をしてまで起立・斉唱させることは思想良心の自由を侵害する」とし、原告の主張を認めた。
流れが変わったのは、07年の最高裁判決の後だ。君が代の伴奏を拒んで戒告処分を受けた都内の教員の訴訟で、裁判長は「伴奏は特定の思想を強制するような行為ではない」とし、命令は合憲との判断を示した。
以来、各地の裁判所がこの判例を踏襲するようになり、同種の訴訟で教員の敗訴が続いている。
東京高裁も、起立・斉唱が「特定の思想を外部に表明するとは言えない」と指摘した。都教委の通達には合理性があり、憲法違反や教育基本法が禁じる「不当な支配」には当たらないとした。
最近、懲戒処分を受ける教員の数が激減しているという。教員からは「職員が萎縮し、閉塞(へいそく)感が漂う」との声が出ている。
自由に意見を述べ合うことすらはばかられる雰囲気は、教育の場にふさわしくない。子どもたちも伸び伸びできない。各地の教委は判決を“お墨付き”とせず、指導の在り方を見直すべきだ。
国旗や国歌への親しみは、誰に強いられるのでなく、自然に育まれるはずのものである。
(転載ここまで)
●「しんぶん赤旗」
主張
「日の丸・君が代」判決
強制を続けていいはずがない
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-02/2011020201_05_1.html
2011年2月2日(水)
約400人の都立学校の教職員が、東京都による「日の丸・君が代」強制にしたがう義務がないことの確認等を求めた裁判で、東京高裁は1月28日、請求を退ける判決をだしました。
一審の東京地裁では、東京都教委の「通達」による「日の丸・君が代」の強制を、違憲・違法と断じました。二審の不当判決で一審判決は取り消されました。たたかいは最高裁へ移ります。
通用しない判決の主張
「日の丸・君が代」問題での都教委の強制ぶりは、全国でも異常で、目に余るものでした。発端は2003年の「通達」(いわゆる「10・23通達」)です。都立学校の入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の方法や会場設営まで細かく決めたものです。いらい入学・卒業式はがらりとかわりました。
以前はたとえば「フロア形式」の式がありました。卒業生と在校生・保護者・教職員がむきあい、見つめあいながら、一人ひとりの成長をかみしめる感動にあふれていました。卒業生の作品で飾られた式もありました。
しかし「通達」後、そんな式は禁じられます。「通達」が「生徒は国旗のある舞台正面をむいて着席」などと画一化したためです。そのうえ都教委は「監視要員」を全校に派遣し、服従しない教職員を次々に処分していきました。
都教委「通達」は、「教育の自由」と「思想・良心の自由」という大きく二つの点から問われ、一審では違憲・違法と判断しました。
二審の判決は、都教委による画一化は創造的な教育活動の侵害ではないと言っています。しかし、「フロア形式」の式は創造的な教育活動そのものです。その禁止が創造的な教育への侵害でないなら、何を侵害というのでしょう。
また判決は、「通達」は創造的な教育の余地を全く残さない教育への介入とはいえず、合法だといいます。各学校での式典の最終決定者は校長です。その校長の権限すら認めない「通達」は、どうみても「不当な介入」そのものです。
「思想・良心の自由」の問題では、二審判決は国歌斉唱など全国的にスポーツ大会でも行っているから、強制はさほどの問題ではないという立場をとりました。
しかし、国旗や国歌は国民への強制を伴わないことが近代社会の原則です。国旗・国歌法制定の際にも政府は、そのことを国民に約束しました。「日の丸・君が代」は侵略戦争の手段として使われた歴史があります。国民の中にある拒否感には、客観的根拠があるといわなければなりません。それを「多くの人がやっているのだから」と押し流してしまったのでは、人権を救済すべき司法が泣きます。
個性豊かな教育のために
「日の丸・君が代」の強制は、今では生徒にも及びはじめています。挙手採決さえ禁じられた都立学校の職員会議では自由な雰囲気が影をひそめ、形式主義や事なかれがはびころうとしています。
都立校は個性豊かな卒業生を世に送りだしてきました。そのひとりである歌手の忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんは、遅刻の多い自分を困った顔をしながら叱ってくれた先生らしくない恩師を、名曲「ぼくの好きな先生」で歌いました。強制の果てには「ぼくの好きな先生」の居場所がありません。その道を続けていいのか、考える時です。
(転載ここまで)
- 関連記事
-
スポンサーサイト
検察の起訴した事件の有罪率が99%、本当に99%が有罪なのか?
そんなことは閉口日中国交正常化50年に寄せて中国とホンジュラスの国交樹立を歓迎するアメリカの裏庭といわれた中南米のホンジュラスが3月26日アメリカの圧力、妨害をはねのけ新中国との国交樹立を発表しました。
心より歓迎したいと思います。
アメリカの閉口孤独の中で援助もなく死産した技能実習生のベトナム人女性は何も罪を犯していない。リンさんへの逆転無罪判決を歓迎2023年3月24日,最高裁は死体遺棄罪に問われていたレー・ティ・トゥイ・リンさんに逆転無罪判決を下しました。これでリンさんの無罪が確定しました。たまには最高裁もまとTakeshi袴田巌さんの完全無罪を勝ち取り、無罪の者を無理に有罪にして真犯人を逃がした検察の過ちと暴力を解明すべき。冤罪と死刑 過去にトンデモ発言をした萱野稔人・津田塾大学教授ですが,死刑についてはまともな議論をしていると思います。「死刑 その哲学的考察」(萱野稔人/ちくま新書)から一Takeshi差別主義経営者のいるホテルチェーンと日本サッカー連盟との不適切なナショナルチームパートナー契約他人を出汁にする人間前コメントの未来さんのおっしゃる様に、誰かを嫌な気持ちにさせてやりたい攻撃性がある人ばかりが、目立ちます。
最近、そうなったのか、あるいは以前からそうだったのかK.Minaイギリスでは嘘の答弁をしたら議員失職になる可能性があるそうです。日本の自民党政府も、そうあるべきです。自民党議員が半分そんな事が日本でも適用されたら、自民党議員は半分になってしまいますね(爆笑)
忘れてました…維新もです(爆笑)
どちらも大将から嘘つきですから。K.Mina日本国と日本人が大日本帝国軍性奴隷制度(従軍慰安婦制度)という蛮行の史実を記憶して二度と繰り返さないために反省しないなら、日本人以外の人々がかつての日本の蛮行を記憶する。カッセル大学で「平和の少女像」が撤去された。ドイツ中部の州立大学、カッセル大のキャンパスにあった「平和の少女像」が2023年3月9日,突然撤去されました。旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する少女像は昨年7月,同大学Takeshi袴田巌さんの完全無罪を勝ち取り、無罪の者を無理に有罪にして真犯人を逃がした検察の過ちと暴力を解明すべき。冤罪による処刑阻止のために死刑廃止が絶対に必要。「冤罪袴田事件 検察庁は再審開始を認めた東京高裁決定に対して特別抗告をしないでください」のアクションに賛同した私は,電子署名を行いました。先日,弁護団の戸舘圭之Takeshi袴田巌さんの完全無罪を勝ち取り、無罪の者を無理に有罪にして真犯人を逃がした検察の過ちと暴力を解明すべき。No title今回の袴田さんの再審決定の件を、メディア(特にTV)がWBCで過剰に騒いでかき消しているように見えてならないです。
冤罪を生み続ける警察・検察を徹底的に批判して、今後月乃兎袴田巌さんの完全無罪を勝ち取り、無罪の者を無理に有罪にして真犯人を逃がした検察の過ちと暴力を解明すべき。No title>検察を起訴し検察を有罪にすべきだとすら思います。
全く同感です。yoshi袴田巌さんの完全無罪を勝ち取り、無罪の者を無理に有罪にして真犯人を逃がした検察の過ちと暴力を解明すべき。No title『袴田巌さんの完全無罪を勝ち取り、無罪の者を無理に有罪にして真犯人を逃がした検察の過ちと暴力を解明すべき。』に対する意見
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blogewkefc自民党の城内実・衆議院議員から国連人権弁務官への攻撃発言がひどすぎるNo title杉田水脈を総務政務官に任命したのも絶句でしたが、よりによってこいつにLGBT特命委員会事務局長をやらせる岸田文雄の思考法が全く理解できない
自民党LGBT特命委員会事務名乗るほど者ではありませんが差別主義経営者のいるホテルチェーンと日本サッカー連盟との不適切なナショナルチームパートナー契約日本は永遠に「差別主義者が幅を利かす国」なんだろうな。これはWBCでの一幕なのですが、旭日旗を振り回して悦に入る日本人……
旭日旗がどのようなものなのか理解していればこんなことには、とも以前は思っていたのですが、どうも最未来バイデン米大統領は「未来永劫謝罪する義務を未来の世代に課してはならない」とは言わずに、今年も第二次大戦中の日系アメリカ人強制収用と公民権剥奪について反省と謝罪を新たにした。 #国家としての謝罪決して謝罪しないアメリカが謝罪した希少例ヒトラー・ナチスの手本は、米国の黒人差別法と先住民の強制収容所だった。
http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-1123.html
優生学の親玉アメリカ問題は、それを巨大檜原転石ヘイト批判記事を書いた神奈川新聞の石橋学記者を「名誉棄損」として一部敗訴させた横浜地裁判決はおかしい。石橋記者の話を聞きます石橋記者を講師にオンライン講演会をします。
詳しくは
https://jcjkikansh.exblog.jp/32922330/ywatari4障害者自立支援法訴訟、和解へ重度の障がいを持って生まれた子の養子縁組 NPO法人みぎわは,障がいを持って生まれてくる赤ちゃんの特別養子縁組をあっせんする日本で唯一の施設です。中絶は年間20万件ほどあるそうです。協力病院の産婦人科医師Takeshi死刑FAQ (適宜更新)袴田巌さんの一刻も早い無罪を切望する。 2023年3月13日, 東京高裁は「無実の死刑囚・袴田巌さん」の再審開始を決定しました。決定で注目すべきは、決定理由中に,「捜査機関が証拠を捏造した可能性が極めて高いTakeshi自民党政府の作る行政文書は、自民党幹部世耕弘成氏によれば、真正・真実であるとは限らないらしい #自民党に投票するからこうなる#自民党に投票するからこうなる安倍チルドレンの高市氏は、総務大臣だった当時「行政指導に従わない放送局は電波停止にする」という恫喝発言で大炎上を巻き起こしました。
今回の文書の内容はこの恫喝発閉口強制ではなく任意であるはずの #マイナンバーカードの義務化に反対します #保険証廃止はありえない #保険証廃止の閣議決定に抗議します (2)自民党の十八番自民党の十八番
当初は任意であるといっておきながらいざ決定となると強制にしてしまうのが自民党のやり方です。
思い出されるのは1999年に成立した国旗国歌法、大日本閉口WHO(世界保健機関)が日本人事務局長を人種差別的言動を理由に解任人種差別発言あれこれ 葛西健の人種差別発言とは,
フィリピンにある事務局での地元フィリピン人スタッフに詰問。
「太平洋地域の人々を何人殺してきたんだ?そして,さらに何人殺したいんTakeshi強制ではなく任意であるはずの #マイナンバーカードの義務化に反対します #保険証廃止はありえない #保険証廃止の閣議決定に抗議します (2)No title 現在、市町村でマイナンバーカードを交付する際には、裏面のマイナンバー、性別、臓器提供の意思表示部分を隠すためのビニールのカバーを一緒につけています。ところが、クテシフォン議員定数を減らすと真っ先に被害を受けるのは誠実な政治を行なう政治家や政党である (大阪の例)No title「議員定数」…地方でも身分・収入が保証されれば「土建屋」だけでなくシングルマザーの方などの参政権も平等なる、否、弱者こそが政治に物申す制度を構築していかなければ月乃兎건곤감리 乾坤坎離 (独立運動記念日)/ 다이아 (DIA ダイア) (不定期連載「気まぐれK-POPプレイリスト」)韓国における過去の歴史の再検討 KPOPの話題からは外れますが,韓国における過去の歴史を再検討する16の法令が施行されていることを紹介したいと思います。
【日本の植民地支配関連】
東学農民革命Takeshi強制ではなく任意であるはずの #マイナンバーカードの義務化に反対します #保険証廃止はありえない #保険証廃止の閣議決定に抗議します (2)税申告書先日、所得税確定申告を済ませました。税理士にお願いしました。申告書にはマイナンバー記入欄がありますが、毎年記入していません。それによるお咎め、例えば税務署からの苗とともに国際女性デー (追記あり)今年の国際女性デー近辺のできごと3月8日は国際女性デーですが,その近辺で日本で起きたことは。
3月7日,高市早苗に捏造呼ばわりされた放送法にかかる文書が公文書であることを自民党政府が認めた。
Takeshi自民党政府の作る行政文書は、自民党幹部世耕弘成氏によれば、真正・真実であるとは限らないらしい #自民党に投票するからこうなる自民党が言っていることは支離滅裂 高市早苗も世耕弘成も公文書として外形は真性だが、自分に関する記述はウソだと言いだしました。いったい官僚が内容虚偽の文書を作って何の実益があるのでしょうか。公務Takeshi議員定数を減らすと真っ先に被害を受けるのは誠実な政治を行なう政治家や政党である (大阪の例)No title『議員定数を減らすと真っ先に被害を受けるのは誠実な政治を行なう政治家や政党である (大阪の例)』に対する意見
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-9016.ewkefc自民党政府の作る行政文書は、自民党幹部世耕弘成氏によれば、真正・真実であるとは限らないらしい #自民党に投票するからこうなる自民に政権担当能力もガバナンスもない「小西議員は捏造でないことを証明しろ」と高市が喚いていますね。
予想の範囲内とされている「ゴールポストの移動」を盛大にやって「何が楽しいんだ」と怒りが湧きます。アンドリュー・バルトフェルド強制ではなく任意であるはずの #マイナンバーカードの義務化に反対します #保険証廃止はありえない #保険証廃止の閣議決定に抗議しますNo titleポイントで釣って、今度はアニメのキャラクターで押し売りする姿勢に呆れます。
引っ越しだ何だと便利だからと言って「一生のうちにどれだけ必要なんだ」、「手続きの為にアンドリュー・バルトフェルド維新の嘘の例。維新の悪政を漂白して維新ロンダリングをする不甲斐ない報道業者。 #維新に騙されるな #マスメディアへの不満 #マスメディアへの不信No title教育の無償化をはじめこれ程維新が嘘をついてるとは思いませんでした。yoshi