村野瀬玲奈の秘書課広報室
社員一人のサイバー政治団体(笑)「世界愛人主義同盟」秘書課勤務の村野瀬です。消費税収入は社会保障に使われずに法人税減税に回っただけって知ってました?まるで国民から大企業への利益の直接補てんですね。有権者と政治の距離を縮めるため、国会議員名簿の活用を!
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「誰もが運命のいたずらで仕事や住居を失って明日ホームレスになるかもしれないという思いのもとに」(5) (貧困と闘う、フランスのある社会運動)
今回第5回を「心のレストラン」についての結びのエントリーにするつもりでした。でも、ここ一週間の東京と日本の国会での動きを振り返ると、まだいくつかのエピソードを紹介したい気持ちになりました。
(今回初めてここにたどり着いた方は、連載第一回から読んでいただけるとよくわかると思います。)
以下、前回までに引き続いて、「心のレストラン」の歴史についての本「心のレストラン 1985-2000(Les Restaurant du cœur 1985-2000」(Michel Lafon出版)から引用
『知事様』
ジャニーン(仮名)
その日、「心のレストラン」が12月から3月までの救援食糧配布の運動だけではないと知って、県知事様は驚いた様子でした。ここだけの話ですが、本来は県知事様も目覚める時のはずなのです。これほど罹災した地域で市民がどのように生活していると知事は思っているのでしょうか?窮乏するということがどういうことなのか、県知事も理解すべき時のはずなのですが。それはいわゆる知事の「サプライズ訪問」でした。確かに、「サプライズ」ということに関しては、県知事様は驚いたことでしょう…。
県知事は、そこにいたボランティア支援者と支援を受けている人たちに「心のレストラン」の活動を説明するように求めました。その人々は知事様にうるさく文句を言うことなく説明しました。貧困、悲惨さを説明するのに胸を張ることはできませんから。その人々はまず、「心の畑」について、私たちが配布する救援食糧の中に入れる野菜を栽培することによって失業期間の長い人たちが働くことを学びなおす場所である、と説明しました。県知事はそれについて「創意工夫に満ちた試み」だと述べました。それから、散髪美容のアトリエについても知事に話しました。そこでは、失業中の美容師が失業者の散髪をするのです。また、縫製作業のアトリエではカーニバルのための服を作ったり住居改修チームのためのカーテンを作ったりしていることも知事に話しました。
「みなさんは住居改修もやっているのですか?」
知事はこう尋ねました。
そこで私たちは公団住宅局が提供するひどい状態のアパートを改装するための連帯職をどうやって作ったかを知事に説明しました。
「みなさんがたは公団住宅局との協力関係もあるからですか?」
話がここまでくると、私たちは本当に笑い出したくなりました。誰だったかはもう思い出せませんが、食事の援助を必要としている人たちは家賃を払うにもかなり苦労することがよくある、と誰かが県知事に指摘しました。そして、その理由で、そのような人たちに役立つ空き住居をこの地域全域で見つけることを担当している住居援助チームが私たちの中にあるとも県知事に言いました。県知事様は、たしかにそれは素晴らしいアイデアだと言いました…。
この短い紹介の間、誰かが「心の連絡役」の存在について言及したのは論理的なことでした。
「連絡役とはいったい何ですか?」
そこで私たちはまた、知事への「実地教育」を始めなければなりませんでした。県知事も国家の代表者であるわけですが、その国家が決めたあらゆる社会援助措置を享受するためには利用者にとってはしばしば複雑すぎるたくさんの行政手続をすることが必要であるということを県知事様は全くご存知ないようでした。そしてまた、これらの措置を適用することを担当する行政の社会援助部局は全く仕事が多すぎて手が回らない状態になっていることがほとんどであることも県知事様はご存知ないようでした。このジャングルの中でサービスを受ける人々に寄り添って援助することは良い取り組みであると知事は言いました。私たちは火星人に話しているような気がしました…。
「心の連絡役」から、「赤ちゃんリレー」に話がくるのも必然的なことでした。
「どのようにしてこのアイデアを思いついたのですか?」
「ある日、配給所で、とても若い母親がイワシの缶詰を一つ余分にくださいと言ったのです。彼女はそれを生まれたばかりの赤ん坊のためだと言ったのですが、私たちは、彼女がクリームチーズの中でイワシをすりつぶして赤ん坊に食べさせていることをそこで知ったのです…」
県知事は青ざめていました。でも、この若い母親の話を聞いた日の私たちほどではなかったでしょう…。はずみに乗じて私たちは、休暇に旅行にもいけない家族たちのために企画実行している休暇村についても少し話をしました。団地で夜に年少の子どもたちが学校の宿題をするのを手伝う「お兄さん役」の子どもたちについても話しました。
県知事は、帰るとき、ここの代表者が私であるというので私と握手しました。彼はこう言いました。
「これらすべて、みなさんにとっては明白なことのようですね。」
「ご存知のように、これは良識の問題なのです。何か問題があれば、解決策を探すものです。」
知事は笑いました。
「すべてがこのように簡単であればいいのですけどねえ!」
私は彼のこの発言を図々しいと感じて、こう答えました。
「簡単であることなどほとんどありません。しかし、なんとか解決策が見つかることもよくあるのです。」
「いずれにしても、援助を必要としている人々のためにみなさんが行っているあらゆることに対しての謝意をお受けください。」
「いえ、援助を必要としている人たちこそが私に多くのことをもたらしてくれるのですよ…」
これは県知事様にとってとどめの一撃でした。彼は私を見ましたが、私の言葉を理解していませんでした。
県知事には決してわからないでしょう。私は彼には言いませんでした。物質的になにも不自由していない私の人生を、生活を、命を「心のレストラン」がいかに救ってくれたかは彼にはわかる由もありません。人が倒れないのを見ることでもたらされる喜び、あるいは、人がしっかりと立ち直るのを見ることでもたらされる喜び。私が「心のレストラン」で出会った多くの友達。チーズを一人分の分量に切り分けながら、あるいはトラックに荷積みを行いながら楽しく過ごした夜。年末の楽しいお祭り騒ぎ。
そして、私の陽光だった人が人生を去った日に崩れ落ちた世界。
生き続けることが何のためになるのでしょう?誰のために生きるのでしょう?
そんな時の私を日々支えてくれ、私に再び生きる力を与えてくれた、ボランティア援助者も援助を受ける人たちも含めた「心のレストラン」の人たちみんなのために。
『休暇』
ジェティーン(仮名)
なぜこの列車に乗ることを承諾したのか私にはわかりません。承諾すべきではなかったのです。引き返して、私の男の子たちと一緒に、私の両親の家の近くの私の家に帰れればいいのですが。安全に。
私の男の子たちはここにいて、眠っています。彼らにとって、休暇旅行をする初めての機会です。私にとっても、ほとんど初めての機会なのです。私が小さかったとき、家族に会うために一度だけイタリアに行きました。その時、私の両親は本当に長い間里帰りをしていなかったのです。お金がないと、旅行するのは簡単なことではありません。私の両親は働くためにフランスに来ましたが、働くだけの人生でした。
私は、労働に関しては、働きたいとは思うのですが、働けないのです。私はとても怖いのです。私は他人が怖い。自分の無知が怖い。人に愚かさを見せるのが怖い。長男の誕生の時に仕事をやめてからずいぶんになります。私は長男のめんどうをきちんとみたかったのです。そして、次男が生まれました。そして、私の夫は去っていきました。繭の中にいるように、私は一人で二人の子と残りました。この時に私は恐怖をおぼえるようになりました。少しずつ、私は危険のない世界の中に閉じこもるようになりました。私の兄弟姉妹、私の両親、二人の女友達、それだけです。何も私には起こりようがありませんでした。
ある日、手当ての支給が終わるときがきました。いわゆる最低額収入生活者です。もうどうしようもない状態になっていました。解決策を見つけなければなりませんでした。私は母と「心のレストラン」に行きました。一人ぼっちでは行けなかったでしょう。恥、そして、動悸、体調不良…。お医者さんは痙攣性体質だと言います。みんな私にとても親切にしてくれました。私は彼らの援助物資がなかったらどうしたらいいかわかりません。私は私の二人の男の子が物質的な不自由をしないことが望みです。人生で、それだけが私の関心事です。
私の二人の子たちのために私は休暇旅行に出ることを承諾しました。「心のレストラン」の人が、フランスを横断して多くの家族を一週間バスク地方(訳者注:フランス南西部、スペインとの国境地方)に連れてゆくこの列車のことを話してくれたとき、私は最初断りました。私が自分の家から出なくなってとても長い年月がたっていましたし、そんなに遠くまで出かけることを想像できませんでした。私に何か起きたら?もし私が体調不良になったら?たとえば、みんなの前で痙攣の発作を起こしたら?誰が私の子どもたちのめんどうをみる?私の子どもたちは私のことをどう思うかしら?
その後、その旅行の仕組みについて私に説明するために私の家に「心のレストラン」から人が来るという知らせが手紙で送られてきました。私はあがってしまっていました。未知の人を家に迎えるのは初めてだと思います。私は家の大掃除をして、コーヒーとちょっとしたお菓子を用意しました。彼らは子どもたちへのプレゼントと、チケットと行き先の休暇村の写真がたくさん載ったパンフレットが収められた封筒を持ってきました。とても素晴らしい様子の所でした。私は「ノン」と言う勇気がありませんでした。「ノン」と言うべきだったのかもしれません。
帰りたい、帰りたい。列車が止まって、家に連れ戻してくれればいい。私には休暇は要らない。休暇とは、私のような人たちのためのものではない。私はそう思い続けていました。
この休暇村にいて私は驚きがおさまりません。私たちは本当に王様のような待遇を受けました。私の子たちと私は、「プロヴァンス・コートダジュール」という名前のバンガローに入りました。清潔でよく整えられた、私たちだけのための本当の小さな家です。私は隣人のとても親切な女性と知り合いました。最初、私は彼女に話しかける勇気がありませんでした。でも、しまいには、一人ぼっちにならないことはとても快適であるとわかりました。みんな一緒にレストランで食事をとるのです。正確には、一つではなくて二つのレストランです。どちらかを選ぶことができるのです!それから、遠足に出かけ、美術館に行き、海に行きました。何度も!天気は良くありませんでしたが、それは大したことではありません。ここは快適です。私の子どもたちはテニスをして、ペタンク(訳者注:特に南フランスで行われる金属のボールを使った遊び)で遊んで、コンピュータいじりをします。来てよかった。夢のようです。
私は帰りの列車の中にいます。私の子たちは眠っています。疲れているのです!心のときめきを持って家に帰ります。五日間というのは短いです。帰る日には、休暇村のある人が言いました。「皆さんとの別れが残念です。」この私にですよ!不思議な気分でした…。ずっとこの週の間、みんな私たちのことを気にかけてくれました。たくさんの人が私に話しかけに来てくれました。そして、それは普通のことだという様子を彼らはしているのです。いちばん不思議だったのは、私自身もしまいにはそれを普通のことだと思うようになったということです!未知の人たちと、大勢の人の只中でこれほど良い気分で接することができるとは私は思ってもみませんでした。気分が悪くなることもありませんでした。この休暇村には600人以上が来ていて、けんかはただの一つもありませんでした。誰も他人への批判をしていないかのように。
今、私はこれがさらに続いてほしいと思っています。私のカバンの中には、いくつかのアドレスと電話番号がはいりました。私はこの人たちとの連絡を失いたくないと思います。もし連絡を失ったらばかなことです。そのうちいつか、みんなで私の家に集まりたいとも思います。私はケーキを用意して、ちょっとしたお祭り騒ぎになるでしょう。私にはたくさんの望みがあります。ひょっとしたら、間もなくまた働き始めることもできるでしょうか?いずれにしても、私は他人の役にたちたい。「心のレストラン」にはこの素晴らしい休暇にお礼を言いたい。そして、ほかの人たちとも出会いたい。なぜなら、その人たちなら怖くないから。結局、みんな私と同じような人たちだったのです。信じられないことですが、二人か三人の人たちとは親しい友だちとしての口調で話すことさえできました。
「信じられない」、それが私のこの経験を言い表す言葉です。本当に信じられない休暇でした。
この記事、 (6)に続きます。
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